のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

夏の初めのノミ話

2008-06-02 | KLAUS NOMI
女神イアトクは「お前は何も恐れてはいけないし、何ものも尊いものとして崇める必要はない。お前が近づいてはいけない場所は何処にもないのだよ」と彼に訓戒を与えた。その訓戒には道化も従うのをこととし、彼らはどんな聖なる場所にもずかずかと足を踏み入れるのをためらうことはない。『道化の民俗学』 山口昌男著 筑摩書房 1985 p.302

僕はあらゆるものに対して、完全なアウトサイダーとしてアプローチする。だからこそたくさんのルールを壊すことができたんだ。ポップスやロック界にはルールなんてないと思われてるけど、実際にはクラシック界と同じくらい保守的なんだ。・・・僕には恐いものなんて何もないよ。それにしても、ルールなんて一体誰が作ってるの? クラウス・ノミ

さあのろ、テンションを高く保つのだ。
なぜなら今日はノミ話だからさ。

昨年の秋頃から、Youtubeにクラウス・ノミのパフォーマンス映像やらインタヴュー映像やらがばんばんUPされてきております。*1

うひゃあ!ノーメイクのノミの男前なことといったら!!
その眼さ!
その手さ!
寸詰まりな指の、妙に脆そうなその手に、おお、できることなら触れてみたかったさ!
取って喰いたいくらいでございますよ!!
こんな映像が今までいったい何処に隠れていたんでしょう?
貴重な映像をシェアしてくださるかたがたに、感謝の念を雨あられと降り注ぎたく存じます。

それにしてもこれらのビデオを見て分かるのは、映画『ノミ・ソング』で使われている映像が、時間的にも内容的にもかなりトリミングされたものであったということでございます。
のろはこのドキュメンタリーによって初めてノミのことを知りましたし、これを作ってくだすったことについて、ホーン監督には大いに感謝しております。
けれどもジョーイ・アリアスの証言を欠いていること*2や、クリスチャン・ホフマンのこちらでの口ぶりなど*3を考えあわせると、功罪ともに大きい作品なのかもしれません。
功のほうが大きいとは思いますがね。

*1 ここでご紹介したものの他にも,Youtubeにはお宝映像が多数UPされております。御覧になりたいかたは並び替え順を”追加日”に指定して"klaus nomi”で検索してみてくださいまし。

*2 アリアスが初めからインタヴューを拒否したのか、それとも何らかの事情によって映画には彼の証言が使われなかったのかは不明です。ワタクシは、アリアスもインタヴューに応じたものの、出来上がった作品を見て「自分の証言は全て削除してほしい」とホーン監督に通達した、という監督自身の話をネット上のどこかで読んだように記憶しております。が、今回いろいろ検索してもその記事を見つけられませんでした。あるいはワタクシの読み違いだったかもしれません。いずれにしても、インタヴュー以外の点では、アリアスは大いに協力してくれたそうです。

*3 ホフマン曰く、ノミと活動を共にし、彼のために歌を書くのがどんなに楽しかったかということや、友人の誕生日パーティーでノミがケーキを焼いたこと等々の証言が出来上がった映画ではばっさりカットされ、自分が金銭的なことで愚痴を言っている部分ばかりが大きく採用されたことにショックを受け、半年ほどそのショックから立ち直れなかった、とのこと。
またインタビュアーは、映画から受けた印象として、ノミは成功するにつれてそれまで一緒にショーをやってきた友人たちを切り捨てたようだったが、そこんとこ実際はどうだったの、と「切り捨てられた友人」の1人であるホフマンに尋ねています。(映画からは確かにそのような印象を受けます)
これに対してホフマンは、ノミ自身が友人たちに対して策略や残酷な仕打ちをしかけたとは思えないが、彼は成功したいとひどく焦っていたし、レコード会社がそこにつけこんだのだろう、という意見を述べています。会社がノミに対して「君をスターにしてあげよう。でもこの人たちと一緒じゃ無理だよ」とプレッシャーをかけたのだろう、と。またレコード会社は文字通りノミを搾取して死ぬまで働かせた、と怒りをあらわにしています。「連中はクラウスの具合が悪くなっても、ツアーを続けるよう彼に勧めた。何の病気なのかも分からなかったっていうのに。というのも連中は、こんな病身じゃあ次のツアーはやれないかも、と思ったからさ。で、彼から最後の一滴までミルクを搾り取ろうとしたんだ」
なお、こちらの情報はコメント欄にてhx2様より教えていただきました。情報ありがとうございました。


話をヤツのパフォーマンスに戻しますと。
つくづく感嘆させられることは、周りの世界からの、みごとなまでの浮きっぷりでございます。
「空気が読めない」どころの騒ぎじゃございません。そもそもヤツの周りと世界のそれ以外の部分とでは、空気の成分からして全然違うんじゃないでしょうか。
そう思うほどに、ヤツは全世界からぽつねんと浮いております。
その浮きっぷりを見るにつけ、しきりと頭に浮かぶのは『身体・表現主義 ~ゲルマニックな身体のリアル。』の中の、ノミについて触れたこの一文でございます。

彼はロック・オペラという新しい風を吹き込んだが、邪推かもしれないが、それはロックとオペラの橋渡しなのではなく、ロックにもオペラにも居場所を見つけられなかったがための到達点だったのではないだろうか。類を見ない姿恰好に、その疎外感を感じるのは穿ちすぎだろうか。(p.99)

これを読んだとき、おおおおおワタクシもそう思いますとも、とのろは1人コーフンしたもんでございます。
そしてYoutubeを通じて、埋もれていたヤツのパフォーマンス映像に触れられる昨今、ますますこの一文が正鵠を射ているように感じられるのでございます。



1970年代、NYへやって来た当時のノミは要するに、需要なんか全然ないカウンターテナーを志す、ロック好きで菓子づくりが得意なゲイで、英語をろくすっぽ話せない異邦人(alien)でございました。
オペラ、ロック、男性、女性といった既存の枠組みのいずれにも心地よく納まることができず、どの領域でもどこかアブノーマルな存在であったノミは、だから自分専用の「納まりどころ」を作ろうとしたのではないでしょうか。
そう考えると、ノミがあの奇妙キテレツでわざとらしさ満点の恰好でパフォーマンスをしたことに、単に彼(と彼の友人たち)の趣味以上の必然性が見えてまいります。当人たちがそれを意識していたかは別としても。

仰々しく硬直した動き、仮面じみた無表情、そしてひと昔以上前の近未来像を思わせる、奇妙な衣装。
その姿はチープなSF映画のロボットか宇宙人のようでございます。ポイントは、「本物の」ロボットや宇宙人のようには全然見えず、あくまでも「チープなSF映画の」それである、という点でございます。あたかも顔面に「嘘 で す」と書いて語られる嘘のように、わざとらしくて明白な虚構。
人々が火星人襲来のニュースを信じた時代は既に遠く過ぎ去り、アシモの登場まではまだずいぶん間がある70-80年代、人型ロボットや宇宙人は完全にフィクションの世界の住民でございます。
逆に言えば、フィクションであることが明白な空間ならば、そこは彼らの正当な領土であり、彼らが堂々と存在できる場所ってえことでございます。
嘘ロボット/嘘宇宙人であるノミの嘘くささ、フィクション性が強調されれば、それだけ彼自身の正当な領土を確保されることになります。そうして確立されたノミワールドは、ノミがノーマルな世界の中のアブノーマルな因子であることを止め、堂々と、安んじて存在していられる場所でございます。
(とはいえこれはあくまでもステージ上の限定的な世界でございます。ノミの友人のガブリエル・ラ・ファーリが言うように彼が「ノミワールドの住民」というパーソナリティを日常の世界まで敷衍しようと試みたとすれば、しんどいことになるのはそれこそ明白でございますし、悲劇的なことでもあったのでございます)

また、かの白塗りの顔やスリー・ポイント・ヘアやタイツ姿は道化師を連想させます。
道化もまた日常性や常識とは相容れない存在でございます。彼らは非日常の世界に属する、あるいは日常と非日常を繋ぐ存在でございます。これまた逆に言うならば、日常性や常識から逸脱した姿や行動は、道化と言う衣装をまとうことによって、この世界での居場所を確保できるというこってございます。
さらに道化(道化的な神や精霊も含めて)とは両性具有的な存在であり、象徴的にさまざまな二面性を担っております。
混沌と秩序、静と動、善と悪、賢と愚、などなど。道化においては本来は対立する二つのものが一者の中に共存しているのでございます。
相反する二つの世界の要素を併せ持ちつつ、どちらの世界にも属さない道化は、その特質によって常識的な世界に風穴を明け、新しい物を生み出す手助けをします。

きまりきった、自明の記憶によって埋まっている王国に、非日常の世界を唐突にその覆いを取ってつきつけることを、道化は考える。
『影の現象学』 河合隼雄著 講談社 1987 p.203

これはまさしく、ヤツがパフォーマンスにおいて行い、インタヴューにおいて語っていたことではございませんか。
宇宙人、ロボット、あるいは道化を思わせるあのいでたちと、とんでもなくチープで嘘くさくてわざとらしいパフォーマンスは、採るべくして採られた表現方法だったのでございます。
もちろんものごとは全て起きるべくして必然的に起きているのではございますが、問題は、自分もその一端を担っている所の必然性を、どれだけ自分の方に引き寄せて活用できるかでございます。
ノミは少なくともアートという側面においては、与えられた条件から成る必然性を自分の味方につけることに、成功していたように見受けられます。だからこそヤツのパフォーマンスは、今もって人の心を惹き付ける、一種の普遍性を持っているのでございましょう。

えっ
そりゃ単なる深読みだって。
ええ、そうかもしれませんて。
でもね、「実際の所どうなの?」って、当の本人に尋ねるわけにはいかないんでございますもの。
多少深読みするくらいのことは、許していただかなくっちゃいけません。



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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-06-08 01:40:19
We enjoy your beautiful work, thank you for your wonderful images of Nomi. Susan in USA
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Unknown (noro)
2008-06-10 10:31:49
Thank you, Susan. I'm just happy if you enjoy it.
Maybe you're wondering why he dresses like a clown (or should I call it "jester"? I don't Know exact definition) in this pic, but it has to do with the contents of text.
Besides, I love to imagine Nomi with various costumes, from kamishimo (a kind of kimono) to sailor suits to waiter uniform like this. ↓

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/dc/e03d6f4ac26d74f6976954b579cec345.jpg
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