のろや

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ミュージカル『わたしは真悟』

2016-12-25 | Weblog
ミュージカル『わたしは真悟』を観て参りました。

ミュージカル「わたしは真悟」公式サイト

美術も振り付けも音楽も何もかも結構でしたが、何より素晴らしかったのは「真悟」その人です。
時には重さを持たないように軽やかに、時には壊れた機械のように痙攣的にと、流麗で力強く、自由自在に展開される迫力の身体表現、目が釘付けになりました。
そして、あの声。
万感の思いを込めて「母」であるまりんに呼びかけ、自分の存在の全てをかけて「父」であるさとるに呼びかける、あの痛切な叫び声を思い出すだけでも涙が出てきます。
自我を宿した機械である「真悟」の精神は、原作の漫画の中では一貫して幼児の姿で描写されておりました。これをいったい演劇でどうやって表現するのかと期待半分不安半分で鑑賞に臨んだわけですが、蓋を開けてみればいくら拍手を送っても足りないぐらい素晴らしい真悟像でした。精神としての真悟を演じる成河氏、そして機械としての真悟を操る/演じる方々が、その全身で表現する無邪気さ、一途さ、そして残酷さ。原作からかなりのプロットが削られているにも関わらず、原作のそれにも迫るほどに切実で真摯な真悟の「在りよう」は、ストーリーの中に自然に流れ込む歌の旋律よりも、映像を巧みに使った舞台装置よりも美しいものに思われました。

筋の省略や表現媒体の違いを克服するためでありましょう、原作とは少し異なる、舞台オリジナルの場面もいくつかありました。例えば真悟が埠頭でしずかの名前を呼んだり、さとるが電気店のPCで思いがけなく真悟にアクセスするなど。その中で最も印象深かったのは、最後の最後の終幕シーン、即ち、真悟が「終わる」その瞬間に、子供のままので遊ぶ父と母=さとるとまりんの永遠の姿を見るという胸に迫る場面への、真悟自身の参加です。原作では楽しそうにこちらに走って来るさとるとまりんの姿が描かれ、次の瞬間に真悟はこと切れるのに対し、舞台ではさとるとまりんが天空から降ろされたような長いブランコに座って互い違いに漕いでいる所へ真悟(の精神)がやって来て、二人の背中を押して同じタイミングで漕げるようにしてあげるという演出がなされておりました。
さとるとまりんの子供時代は、現実の時間的流れの中では二人の成長に伴って「終わる」一方で、決して汚されることなくきらめく存在として永遠の中に留まっております。それと同じように、彼らの「子供」である真悟もまた「終わる/死ぬ」のと同時に永遠の世界(=子供としてのさとるとまりんのいる世界)へと旅立って行ったのでしょう。そのことが詩的に、かつより明確に描かれた、切なくも優しい演出でありました。

少しだけ欲を言うなら、真悟がかつては万能であった自身のエネルギーと能力、そして記憶までも犠牲にしながらさとるの元へと辿りつくくだりを、もう少し時間をかけて描いて欲しかったとは思います。それから「そしてアイだけが残った」の一文も、できれば聞くなり見るなりしたかった。

真悟以外のキャストについても少し。
さとる役の門脇麦さん、所作や台詞回しが実に自然で説得力があり、本当に10歳ぐらいの男の子が舞台に立っているように見えました。
しずか役の大原櫻子さん、原作の登場人物では最年少なのに時々大人びたことを言う、かつ中盤までかなりのウザキャラであるしずかは難しい役どころではないかと想像しますが、チャーミングに演じておられました。情感のこもった歌もお見事。


さて本作はミュージカルであって、印象的な歌も色々とあったわけですけれども、NHK-FMのラジオドラマで初めてこの作品に親しんだワタクシとしては『わたしは真悟』といえば何をおいてもこの曲なのです。最初の「ジャ〜ン」だけでもうグッと来ますね。

佐野元春 『レインボー・イン・マイ・ソウル(ライブ 1993)』

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