のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『榎忠展 美術館を野生化する』

2011-11-10 | 展覧会
兵庫県立美術館で開催中の榎忠展 美術館を野生化するへ行ってまいりました。

会場内は撮影自由だったのだそうで。あとになって知りました。
習慣でメモ帳以外の荷物を全てロッカーに預けてしまっておりましたので、当のろやでは残念ながら場内の様子はご紹介できません。まあこちら様をはじめ写真レポをしておられるブログさんが色々ございますからあえてここで画像を出す必要もあるまいというのは負け惜しみでございます。

さておき。
榎忠氏回顧展といえば2006年キリンプラザ大阪での『その男・榎忠』が思い出されます。
今はなきキリンプラザの3フロアに渡る会場に展示された平面や立体の作品、また当時の新聞記事や映像資料などによって、過激にしてユニークな榎忠氏の足跡が丁寧に紹介されており、非常に充実した内容の展覧会でございました。この展覧会によって、その2年前に京都近美で開催された『痕跡』展で氏の半刈り姿を目にして以来、ワタクシが氏に対して漠然と抱いてきた尊敬の念は決定的なものとなったのでございます。

今回の回顧展はと申しますと、『薬莢』や『ギロチンシャー』など、展示スペースを贅沢に使ったインスタレーションは大変見ごたえがあり、キリンプラザでのお披露目以降にさらなる増殖を遂げたらしいRPM-1200と再会できたことも感慨深いものがございました。

ただ、本展についてはひとつだけ不満な点がございます。キリンプラザと同じような展示をしてもしょうがないという理由からかもしれませんが、形として残っていない過去の作品については、紹介があっさりとしすぎであるという点でございます。
「最大規模の回顧展」と称する展覧会ですのに、ダイオキシン問題を作品化した『2・3・7・8・TCDD・PROPAGATION』』や、ひたすら巨大な穴(というか地下空間)を掘るプロジェクト『地球の皮膚(かわ)を剥ぐ』、総重量25トンにおよぶ廃材彫刻『スペース・ロブスターP-81』(いずれも展示終了後は解体又は埋め戻したため、現存しない)、そしてかの『BAR ROSE CHU』などの素晴らしい作品やパフォーマンスについて、きちんと解説のついた展示が無いというのはいかにも残念なことではございませんか。
『BAR ROSE CHU』についてはキリンプラザでも上映されていたビデオが一応本展でも見られますけれども、その他のドキュメンタリーや記録映像もひっくるめて、たったひとつの再生機器で繋げて流すというのは、あんまりいいやり方とは思えません。通りすがりにローズチュウの部分だけを目にしたおばちゃんなんか「うわ、こんな格好してはる人なん...」と素で誤解しておりましたよ。いや、そんな格好してはりますよ、してはりますけどね。
また上映機器の設置場所が会場内ではなく休憩スペースを兼ねた通路という場所なので、授業で連れられて来ただけの中学生どもが遠慮なくぎゃあぎゃあ騒ぎながら前を横切って行くではございませんか。これには閉口いたしました。

と文句を垂れるのはこのくらいにして。

榎忠氏の作品を言語化するのはとても難しくて、作品を目の当たりにすると脳みその言語野が「うをー...」と声を発したきり黙り込んでしまうのでございました。そもそも言葉では用が足らない所を作品化なさるんでしょうから、当たり前とも申せましょうけれども。

無理な所を無理矢理ながら言葉で表現してみるならば、氏の作品やその記録を前にしてしばしば感じることは、ほとんど冗談のような生真面目さ、そして「積み上げ感」でございます。しかも、同じ形では再構成されることのない、つかの間で一回限りの積み上げ。
積み上げ、と申しますのは単に「もの」の積み重ねというのみならず、作品化された「もの」に加えられた(時には膨大な)エネルギーの積み重ねであり、その「もの」が経て来た時間の積み重ねであり、当然ながら作者であるエノチュウ氏の時間と労力との積み重ねでもあります。
目の前に展示されたひとつの「もの」、空間、あるいは画像の背後に、目には見えねど累々と、緻密にあるいは大胆に、積み上げられた諸々こそ、いわばそれらの表層としてつかの間だけ存在する個々の作品に、あのように圧倒的な存在感を与えているのではないかと。

こうすると、こうなる。
こうすると、こうなる。
こうすると、こうなる。

そのあくまでも物質的な原因→結果の積み重ねと、「いや、普通そこまでしない」とつっこみたくなるような労力。その集積が作品としてドンと目の前に置かれ、あとは鑑賞者におまかせ。そこにおいては善悪や有用性、恒久性といった日常的なものさしは粉々に砕かれ、ただただ「もの」と「私」とが対峙する世界が立ち現れます。時にはその「もの」がアーティスト本人であったりするのがまた面白い所で。

切断された鉄材の、クリームのように滑らかな断面。
ひしゃげ、つぶれ、破裂して転がる、膨大な数の薬莢。
約4年かけて左右を入れ替えたという半刈り姿で、まっすぐにこちらを見つめる氏のポートレート。
これらはみな、私たちが日頃「まあまあこの程度であるはず」と何となく見切って過ごしている現実に対して「いやいやそんなものじゃないよ」と、日常と地続きな異世界をつきつけて来る不敵な「もの」たちでございます。
その表層の有無を言わさぬインパクトに浴したのち、作品が含む社会的・個人的意味についてじっくり考えるもよし、「今日はなんかエライもの見てしまった。以上」で日記を締めくくるもよし、アート好きもそうでもない人も、まずはお運びになって、氏の力強くもユニークな作品世界を体感してみていただきたいと思います次第。





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