のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『蔵書票の美』

2008-12-17 | 展覧会
関西学院大学で開催中の『本に貼られた版画 蔵書票の美』展へ行ってまいりました。
蔵書票の小宇宙に浸って目を楽しませた一方で、蔵書票の意義とはそも何であろうかといささか考えさせらることともなりました。

6月に精華大学で催された『蔵書票グラフィティ』では年代も国も様々な蔵書票が展示されておりました。
コレクターの原野賢吉氏から関学に寄贈された膨大なコレクションの中からその一部を展示している本展では、原野氏が日本人の版画家に依頼して作ったもののみが展示されておりました。
全て原野氏用の蔵書票でございますから、当然ほぼ全ての図案の中に、何らかの形で原野氏蔵を示す文字が入れ込まれております。
「原野蔵書」「原野愛書」「原野賢吉」「はらの蔵」「K・HARANO」などなど情報としては全く同じものながら、それを小さな紙片の中にいかに美的に入れ込むかは作家の手にゆだねられております。よってそのデザインも表記もさまざまでございまして、情報が同じなればこそ、比較の面白さがございました。
絵柄もかわいらしいものからエロチックなもの、ほのぼのとした味わいのある木版画や華やかな型染めの作品、細密で幻想的な銅版画など色々。布やプラスチック製の珍しいものもございました。

のろは思ったのでございますよ、これだけのコレクションの中から、本の内容や思い入れに合わせて貼ることができるとすれば、それは何と贅沢で豊かなことであろう、と。
しかしその後参加した講演会で、のろが抱いた「豊かな蔵書票生活」のイメージは単にイメージに過ぎないのかもしれない、と思わされるやりとりがあったのでございます。

講演会はのテーマは「蔵書票と博物館」。実のところ博物館のお話はほとんど無く、プリントやスライドで有名作家の蔵書票などを見ながらそれにまつわるお話をお聞きする、というややとりとめのないものでございましたが、まあまあ面白いものでございました。講演後にちょっとした質疑応答がございまして、のろがエェと思いましたのはこの時でございます。

参加者の一人が、蔵書票コレクターでもある講演者のかたに尋ねられたんでございます。ご自身で持っておいでの蔵書票を、実際に蔵書に貼っておられるのでしょうかと。
すると、実はほとんど貼っていない、額に入れて鑑賞したりするものであって、他のコレクターもおおむね貼らないのではないか、とのお答えでございました。
のろが驚きましたのは、交換や購入によって入手したもの、即ち他人の名前の入ったものであればいざ知らず、そのかたは今までに400ほど(枚数か種類かは分かりません)自分用の蔵書票を作った、とおっしゃっていたからでございます。

あるものが、本来の機能を失ったのちもその美的な側面でもって愛される、というのは良いことと思います。そもそも本来の機能は果たさない方がいいようなものもございますしね、刀剣ですとか。
しかし「◯◯蔵書」という字をその身に帯びているのに、作られてからこのかた一度もその持ち主の蔵書に貼られたことがなく、これからも貼られる予定の無いものを「蔵書票」という名で呼ぶのはいささか空しいような気が、ワタクシはいたします。
蔵書票の美は、持ち主の書物愛-----あるいはそれを貼った瞬間から生じる、自らの蔵書に対する責任感-----に裏打ちされているからこそ、独特の趣深さがあるのではございませんか。

切手のように、コレクターも一般の人も等しく買い求めるものとは違い、名入りの蔵書票は持ち主本人が使わないかぎり、その本来の役割をはたす機会は永遠にございません。はなから本に貼るつもりが無いのであれば、「◯◯蔵書」や「EX LIBRIS」という文字はいったい何のためにあるのでございましょうか。それはもはや「蔵書票」ではなく「名前入りミニ版画」ではございませんか。
蔵書票をコレクションする人なら、そうしたものに関心の無い人や、そもそもその存在を知らない人よりずっと蔵書票に対する理解があるはずでございます。そんな人たちですら使わないとしたら、そも蔵書票が蔵書票として存在する意義なんてあるのでございましょうか。
使うつもりの無いままにただ鑑賞のためだけに作られ、蔵書票であったことが一度も無い蔵書票ばかりがひたすら交換・蒐集されるというのが現状なのでございましょうか。
だとすれば、それは甚だ奇形的なことであると、ワタクシには思われるのでございます。




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