のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ジュラシック・ワールド』

2015-09-16 | 映画
人生で初めて劇場に二度観に行った映画は『ジュラシック・パーク』でした。

幼稚園に上がる前からの恐竜好きであったのろさんは、ブラキオサウルスの登場シーンに涙が出るほど感激し、彼女または彼にくしゃみをかけられる子供たちに嫉妬し、ヴェロキラプトルの賢さと美しさに息をのみ、ティラノサウルスの咆哮をほとんど神聖なものを見るような心地で目撃したものでした。
そして2作目『ロスト・ワールド』では恐竜へのリスペクトを欠く展開に心底がっかりし、3作目はティラノが壁の穴からガオ~と顔を突出しているポスターからしてこりゃ駄目だと悟り、もはや観ようという気にもなりませんでした。(ちなみにTレックスという呼び方はワタクシ好きではないので使いません)

そんなワタクシが『ジュラシック・ワールド』を観てまいりました。

期待が大きかった分、ガッカリ感も大きかったとも申さねばなりません。
恐竜が沢山見られたのはよかったですよ、そりゃあもう。
けれども映画としては「ウーン、こんなもんか」といった所。
というわけで、鑑賞前の期待の大きさに比例して、以下はひたすら文句ばかりです。

まずはネット上で見つけた、わりかし共感できるレヴューをいくつかご紹介しておきます。

『ジュラシック・ワールド』 恐竜大戦争|映★画太郎の MOVIE CRADLE

恐竜好きからすると複雑 - ユーザーレビュー - ジュラシック・ワールド - 作品 - Yahoo!映画

堂々巡りなストーリー - ユーザーレビュー - ジュラシック・ワールド - 作品 - Yahoo!映画

好意的なレヴューの中には「アトラクションとして楽しめた」というご意見がけっこうあるようです。でもワタクシはアトラクションを体験しに行ったのではなくて、映画を観に行ったのですよ。アトラクションとして楽しむべし、という代物なら、映画館ではなく遊園地でやっていただきたい。

結局、『ジュラシック~』というタイトルに何を求めるのかということなのだと思います。ワタクシはあの名作『~パーク』から連なる作品に、ただのパニック映画になってほしくはなかったのですよ。
もちろん1作目もパニック映画ではありました。しかしおっそろしく上質なパニック映画だったのです。また自然を意のままにしようとする人間の傲慢さや、それにたいする警告といったテーマが、観客の心に響く形でしっかり織り込まれておりました。
本作『~ワールド』も、制作者がそうしたメッセージを打ち出そう打ち出そうと頑張っているのは分かりました。オマージュとおぼしきシーンもいくつかありました。問題はそうした頑張りのほぼ全てが空回り&上滑りに終わっていたことです。では1作目『パーク』と本作『ワールド』ではいったい何が違うのか。

サスペンスの見せかたがスピルバーグほど上手くない、というのはしょうがないとして、観客が登場人物の判断や行動に共感できるか否かが大きいのではないかと思います。『パーク』におけるそもそもの元凶は、恐竜再生という大それた事業に手を出したインジェン社のハモンド会長です。しかし、恐竜を現代に復活させるという試みそれ自体は、ハモンド翁のみならず映画の観客にとっても、とても魅力的なものでした。

少々自然の成り行きに反するかもしれないけれど、絶滅した生き物を蘇らせるのはそんなに悪いことだろうか?
逃げ出したり勝手に繁殖したりしないよう厳重に管理するなら、環境への影響だってそんなにないのでは?
生きた恐竜を間近で見られたら、どんなに素晴らしいだろう。
目の前で草を食む首長竜たち、密林を行き交うすばしこい小型恐竜たち、そしてもちろん、囲いの中にはティラノサウルスがいなくては!
ティラノなしの恐竜復活プロジェクトなんて考えられない。獰猛なのは承知の上、だからしっかり管理して…。

恐竜復活、これは恐竜好きならときめかずにはいられない、そんなにうまいこと行くわけがないと分かっていても「本当だったら素敵だな」と思わずにはいられない夢物語でございます。だからこそ、たとえ無謀なプロジェクトであったにせよ、それを押し進めてしまったハモンドを責めきれない部分がありました。つまり観客からハモンドへの共感の余地があったのです。
そのため、しっかり管理されていた「はず」の恐竜たちが囲いから放たれてからのパニック映画らしい展開にハラハラドキドキする一方、何もできずにひとりぼっちでアイスクリームを食べるハモンドの姿に悲哀を感じ、終劇に際しては単なる「めでたし、めでたし」という楽観のみならず、戒められたような粛然とした気持ちも残ったのです。

また一例を挙げれば、『パーク』では数学者マルカムがグラント博士を手助けしようとして、もう少しで立ち去る所だったティラノサウルスを自分に引きつけてしまうというポカをやりましたけれども、これなども結果的には誤りであったとはいえ、行動の動機そのものは共感できるものでした。同じ立場に置かれたら自分もああした、という人だっているかもしれません。(ワタクシは臆病者なのでしませんが。)
またマルカムは魅力的なキャラクターでしたから、観ているこちらも「あんなバカなことをして」と憤るのではなく、むしろマルカムの身を案じてますます手に汗握ることになったわけです。

ところが『ワールド』では魅力ある登場人物がそもそも少なく、なおかつ揃いも揃って共感できない行動ばかり取るので、終始ハラハラどころかイライラさせられました。子供らが無鉄砲なことをするのは仕方ないとしても、大人たち、しかもその道のプロであるはずの飼育係や重要な部署の担当者、そして施設全体の管理責任者までもが、個々の状況判断から組織的な運営といった様々なレベルにおいて「え、何で!?」と言いたくなるような愚かな行動に及ぶのです。

特に本作のヒロインであり、(それらしい描写はないものの)科学者であり、パークの管理責任者でもあるらしいクレア、これは本当に不愉快なキャラクターでした。生まれてこのかた観た映画を振返ってみても、これほど不愉快な登場人物はそうそういないという程の超弩級の不快キャラです。
恐竜たちのことを見下し、恐竜好きの部下をバカにし、目下の者にはとにかく威丈高、その上意固地で浅はかで無責任ときております。ワタクシはこの人物があんなにバカにしていた恐竜たちによって無惨に喰い殺されるのを心待ちにしていたのですが、あろうことか最後まで生き延びやがりました。

その一方で、クレアから甥っ子たちのお守りを押付けられた秘書の女性は、そのせいで(と言っていいと思いますが)とんでもなく悲惨な死に方をするのです。結婚式を目前に控えていたのに。この秘書がクレア同様に普段から恐竜を見下していたとか、実は今回のパニックの原因の一端であった、とか、密かに軍と通じて情報をリークしていた、とか、そういった描写があるならまだしも、ほとんど何の落ち度もなかった彼女を、なぜあんなにも執拗に痛めつけてから死なせることにしたのか、制作者の意図が全く分かりません。

この他にこまごまとした例を挙げることはよしますが、とにかく登場人物の行動に共感できないので、バカなことをした人物がその後ひどい目にあっても自業自得だなとしか思えず、バカなことをした人物がひどい目にあわなければ御都合主義が気になり、バカなことをしたわけでもない人がひどい目にあえば理不尽な気がして、映画にのめりこむということができませんでした。

それから、恐竜のことなんですが。
遺伝子組み換え恐竜インドミナス・レックス、あれはもう恐竜ではなく怪獣ですから、何でもありで結構です。目からビームを出そうが火を吹きながら空を飛ぼうがお好きになさったらいい。でも、ヴェロキラプトルが中盤でいきなり人間臭くなるのは何故なんですか。映画序盤では飼育員のオーウェンを喰い殺しかねない奴らだったのに、それから数時間しか経っていないはずの中盤ではすっかりオーウェンに懐いている様子。しまいにはオーウェンを守るために闘い始めるってどういうことですか。

細かい事は気にするなと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これ、ちっとも細かい事ではございません。
細かい事というのは、いかに幼獣だからって触れ合いコーナーにトリケラトプス出すのは危ないだろあそこに出すならプロトケラトプスだろ、とか、翼竜たちは突然ねぐらを襲撃されたのに何で侵入者に襲いかかるのでも散り散りに逃げ出すのでもなく皆で食糧調達にいそしんでるんだ、とか、軍のヘリは外部からパークのある島に向かって飛んでるはずなのになんであの翼竜(ディモルフォドン?)はヘリと同じ方向に飛んでるんだ、とか、アンキロサウルスでさえあんなに勇敢に闘ったのに、野原にいたトリケラたちがインドミナスに一矢も報いずにみんな逃げ出すなんてことあり得るだろうか?!とか、そういうのです。

ラプトルたちとオーウェンに代表される、恐竜と人間との信頼関係というのは、本作の大きなテーマのひとつ、しかもシリーズの他作品にはない、本作が独自に打ち出したテーマではありませんか。それなのにこんな雑な描きかたをしてはイカンでしょう。
例えばラプトル舎での騒動からインドミナス狩りまでの間に、軍関係者か誰かの手出しのせいで事件が起きて、オーウェンがラプトルたちを命がけで助ける、それをラプトルたちがしっかり見ている、といった一幕があればまだしも説得力があったでしょうに。ワタクシとしては肉食恐竜たちには人間となれ合ってほしくなんぞ全然ないのですけれども、ストーリー上それが必要だというなら、せめて説得力のある語りをしていただきたいのですよ。

この1点に限らず、重要なテーマなのかと思いきや扱いがとても雑な「テーマもどき」がひとつならずあり、どれもこれも中途半端な印象を受けました。
ただ、インドミナス誕生をめぐるウー博士とマスラニCEOの対話の中で解説された失敗の構造については、それ以上突っ込まれることがなかったとはいえ、なかなか穿っていてよろしかったと思います。上層部がざっくりした指示だけ出して丸投げし、中間がそれを好きなように解釈し、末端の技術者らは自分の部署内でおそらくはベストを尽くし、誰もそうとは気付かぬ無責任体制の中でろくでもない代物が出来上がってしまった。でも、それもこれも、どんどん高くなる観客の要求に応えようとしたため…って、あれ、何だかこの映画自身のことのような気がして来ました。

それにしてもあのCEO、現場のことをあまり把握していないざっくり経営ではあったかもしれませんが、上述のクレアなんぞよりよっぽど責任感があり、人間もできており、若干お茶目ですらあったのに、何であんな死に方をせにゃならんのかしら。東洋人だからかしら。
ウー博士だって1作目に登場した時は全く悪人ではなかったのに、本作ではヤバい恐竜は作るわ、上層部に内緒で軍と通じてるわ、大事な胚を持ってさっさと逃げ出すわ、すっかり「悪い奴」になってしまいました。東洋人だからかしら。

↓こちらの記事によると、当初は中国人の女性古生物学者とその子供たちがメインキャラクターとして構想されていたのに、脚本見直しの過程で古生物学者はいなくなり、子供たちは白人ということになったのだそうです。

The radical “Jurassic World” we didn’t get to see: When “starting from scratch” means “starting from white” - Salon.com

また女性の描きかたについては、本国でも色々言われているようです。Jurassic World sexistのキーワードで検索しますと、反論も含めて色々出て来ます。もちろん主に取りざたされているのはクレアのことですが、ワタクシは他の女性キャラの描きかたもちょっと気になりました。
子供たちの母親なんて登場するたびにべそべそ泣いてましたし、未婚のクレアにわざわざ「子供っていいものよ!」などと言うのも唐突な上にわざとらしくて白けました。パークの女性スタッフも「死者が出た時に泣く要員」てな感じで、これといった活躍はありませんでしたし。
↓の記事が言うように、20年以上前の『パーク』の方がよほど女性をまっとうに描いていたと思います。

‘Jurassic Park’ is 100 times more feminist than ‘Jurassic World’ | Fusion


うーむ。
ひたすら文句ばかりったってこんなにも文句ばかり言うつもりではなかったのですが。
考えれば考えるほどイカン所が見つかってしまう映画のようです。
ほんと、何も期待せず「ただのパニック映画」と思って観た方がよかったのでしょうね。そうすれば、演出のダサさも、面白くもない笑い所も、無茶すぎる展開も、魅力のなさすぎるキャラクターも、笑って許せたかもしれません。
まあ、そんな心構えが必要だと始めからわかっていたら、そもそも観に行かなかったでしょうけれど。


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1 コメント

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ジュラシックパーク3のポスター (カスケ)
2018-07-15 21:10:01
はじめまして。3年前の記事ですが、丁度新作が公開され、先日テレビでも放映されていたのでコメントを。

感想を拝見したのですが、ジュラシックシリーズに求めるものが自分とは違うようなので感想に対する意見ではなく、記事中一箇所だけのろやさんが記憶違いをされているのでは?と思った箇所があったのでそれについてのツッコミなのですが、
ジュラシックパーク3について、ポスターがティラノサウルスが壁から顔を出すダサいものになっているから3は見る気にもならなかったと書かれていますが、
恐らく3はご覧になっていないと思いますので少しだけ内容について説明しますと、3ではメインの恐竜がティラノサウルスではなくスピノサウルスという恐竜になっていて、映画のロゴもティラノサウルスではなくスピノサウルス、ポスターもスピノサウルスメインのものになっており、ティラノサウルスはポスターには殆ど出ていないので、どこで使われたポスターか調べたところ、ジュラシックパーク3ではなく、2のロストワールドのポスターでした。
なので勝手な推測で申し訳ないですが、3のポスターを見て駄作だと思っのではなく、ポスターを観てダサいと思ったロストワールドが、やっぱり内容も駄作だと感じたから3はもうジュラシックシリーズに対する期待値もなく、観る気にもならなかったのではないでしょうか?

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