のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『大エルミタージュ美術館展』1

2007-04-22 | 展覧会
当地では桜も散り木々が芽吹き
急速にあたりが青々としてまいりました。
イワン・カラマーゾフを思い出す季節ではございませんか。
粘っこい若葉に瑠璃色の空ですよ、まったく。
「神さま」なんていやしませんよ、イワン。
だけど全てが神なのさ。

というわけで
というわけでもございませんが
『大エルミタージュ美術館展』 京都市美術館 へ行ってまいりました。

15世紀の聖母子像からピカソまで、年代的にずいぶんと幅広い展示でございました。
「都市と自然」というテーマにのっとって選ばれた80点、
3つのセクションには各々「家庭の情景」「人と自然の共生」「都市の肖像」とうタイトルがつけられております。
そうしたテーマに即して鑑賞してみますと
絵画というメディアに求められるもののの変遷、人間の自然に対する要求・態度の変遷、
時代・地域における好みの違い、といったものが見てとれ、興味深いものがございました。

各セクションにおいてとりわけのろの心に残った作品をご紹介いたします。

まずは
『オランダの室内』 ピーテル・ヤンセンス・エリンハ

数年前公開された『オランダの光』という素晴らしいドキュメンタリー映画の中で
17世紀オランダ絵画の専門家は
「”オランダの光”を壊すことは誰にもできない。なぜならそれは変わらずそこに、絵画の中にあるのですから」
と言い、ロッテルダム在住のアーティストは
「”オランダの光”は我々芸術家の遺伝子に組み込まれ、容易に作品の中に取り入れることができます」
と語っております。
そんな”オランダの光”、独特の陰影を持つ自然光は、エリンハの作品においてもみごとに捉えられております。

窓から斜めに差し込む光も、繊細に描き込まれた椅子の影も、画布の上でこうして永遠に止揚しておりますが
実際は、見ている間にも刻々と位置を変えていくものでございますね。

ハルス、レンブラント、フェルメールに代表される17世紀オランダ絵画。
年代的にはバロックにカテゴライズされるわけでございますが
いわゆる黄金時代のオランダ絵画は、単にバロックという大きなくくりでは捉えられない
独特の輝きがあるように、のろには思われます。

その独特な輝きを担っているのは
ひとつには、画家たちの高度な技術が、王侯貴族や神話・聖書の登場人物といった「天上の人々」ではなく
(寓意が含まれているにしても)市井の人々や生活の場を描くために用いられているという点であり
またひとつには、これらの、いわゆる「オランダの光」を封じ込めた絵画は
「瞬間/うつろいを定着させる」ということに殊更力が注がれているという点でございます。

当時流行したヴァニタス画(この世のはかなさや時の移ろいやすさを表現した寓意画)の
みずみずしい切り口を見せる果物や、今を盛りと咲き誇る花々といった、直接的な「うつろい」の描写だけでなく
生活の一コマを切り取った、フェルメールやデ・ホーホ、そしてこのエリンハの作品の中にも
今いっときだけの輝きをとどめようという画家の試みが感じられるではございませんか。

空前の経済成長を遂げた国で束の間の繁栄を謳歌した人々の、
できることなら今の輝きを永遠にとどめたいという思いと
栄光はいつまでも続きはしないだろうという予感が
画家をして「刹那の定着」へと向わしめたのであろうかと
のろは想像いたします次第。

ちなみに
『オランダの室内』が描かれたのは1670年頃とのこと。
「災厄の年」1672年にはイングランド、フランス、そしてドイツにおけるカトリック勢力が手に手を取ってオランダに戦争をしかけて来ます。
自由主義の保護者であり、国の実質的な最高責任者であったデ・ウィットは
彼の軍縮政策がこの危機を招いたというかどで、煽動された暴徒により殺害され
以降、オランダは経済的にも文化的にも衰退の道をたどることになります。
してみると、『オランダの室内』に描かれている光は
かの国が「栄光の17世紀」の最後に放った輝きとも言えのではないでしょうか。

ちなみにその2。
スピノザは1965年、ライフワークである『エチカ』の執筆を中断し、『神学・政治論』の執筆に取りかかったのですが
書簡によるとそれには以下のような動機があったためです。
1:神学者の偏見を解消するため 2:無神論者であるというスピノザ非難への反駁 3:思想の自由を擁護するため
3つ目の動機について、スピノザはこう書いています。

「私を動かしてこれを書くようにさせたものは・・・(中略)・・・哲学することの自由並びに自分の考えたことを発表する自由です。私はこの自由をあらゆる手段を通じて守ろうと思います。この自由は、当地では説教師たちの極端な権威と厚顔のために、さまざまの仕方でおさえられております」
(書簡30 上記引用は『人類の知的遺産』35 p277より)

『神学・政治論』は1970年に出版され、轟々の非難を浴びながらも版を重ね
発売後一年間で第四刷まで発行されましたが、デ・ウィット死後の1674年には発禁となりました。
翌1675年完成した『エチカ』は危険思想の書とみなされ
スピノザの奔走にもかかわらず、出版することすらできませんでした。
1677年、スピノザが亡くなったこの年の12月に、遺稿集として友人たちの手により出版されたものの、即座に発禁処分となりました。

こうして年代を追ってみると、スピノザの出版事情に
当事のオランダが次第にその自由な気風を失っていったさまがあらわれております。

スピノザが『神学・政治論』で以下のように讃えたオランダは、デ・ウィットの死をもって終わりを告げたのでございました。

「我々は、判断の自由と神を自らの意向 に従って礼拝する自由とが何人にも完全に許されている国家に、ーーー自由が何ものにもまして高貴であり、甘 美であると思われている国家に生を享くるという稀なる幸福に恵まれている」




・・・ううむ エルミタージュ美術館展の話だったはずですが・・・


ともあれ、次回につづきます。



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5 コメント

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こんにちは (韓流スターだーいすき)
2007-04-22 15:06:59
韓流スターかっこい~


韓流スターの情報を集めていて自分でもサイトを作ってしまいました


もしよろしければ遊びに来てみてくださいね
返信する
観ました (共猫)
2007-04-22 22:12:49
”オランダの光” 私好きです
難しい事はわかりません
     ただ 綺麗でしたね
気候風土 自然にはかないません!
返信する
Unknown (のろ)
2007-04-25 09:04:23
>韓流スターだーい好き 様

こんにちは、はじめまして。
韓国映画は『悪い男』しか観たことがなく
あちらの俳優さんのお顔もお名前も知らないづくめなワタクシですが
韓流スターだーい好きさんのブログ、覗かせていただきました。
熱心に情報収集なさっておいでですね。ナイスざんす。
ここ数年で、ほんとに沢山の韓国映画が
劇場で公開されるようになりましたね。
ほとんど観てないワタクシが申すのも何でございますが
市井からこうして文化交流が進むのは、
大変よいことだと思っております。


>共猫様

『オランダの光』、実に美しかったですね。
節目節目に挿入された、定点観測の風景も心に残るものでしたが
ワタクシは、天文物理学者フィンセント・イッケ氏の
水槽と鏡を使った実験の美しさと説得力にしびれました。
この映画の主題は、いわゆる”オランダの光”というものは
湖の干拓によって失われたのか、失われてはいないのか?
いやそもそも、”オランダの光”なるものは存在する/したのか?
ということを廻っているわけでございますが
共猫様はどのようにご覧になったでしょうか。
イッケ氏の実験にノックアウトされたワタクシとしては、
やはりかの”光”は、物理的には失われてしまったのではないかと思います。
とはいえ、本文でご紹介した美術史家やアーティストの言葉も
また一面の真実であろう、とも思うのでございますが。
返信する
人間の力と愚かさ (共猫)
2007-04-26 06:00:18
思い出しました 鏡の実験…
京都シネマの催しで知りました
ドキメンタリ-映画と言うのですか
予備知識無くふら-っと覗いて得した気分
オランダの絵画の光の使い方が
この土地ならでわの気候風土から生まれた
それを科学とする ”目がテン”ですね
佐川美術館で、
「東海道・木曾街道 広重 二大街道浮世絵展」
みました
改めて江戸時代の浮世絵の手法・技術・センス
単なる旅の情報誌ではないですね
そして化学製品ひとつもない エコロジ-な風景 
籠 草鞋 傘 瓦 提灯 蝋燭 暖簾 行燈 
新幹線で便利になったけど 地球は壊れかけてる
売店で連れがレプリカとコビ-の値段の違いをいう
版木で何回も刷りあげた物とコピ-機1回通した差
と説明したけど 人目ではわかりません 
過の大阪万博のテ-マ”人類の進歩と調和”それに尽きる  浮世絵に 描かれしものは エコロジ-
  
 
返信する
Unknown (のろ)
2007-04-27 23:29:24
>新幹線で便利になったけど 地球は壊れかけてる

便利さの代償について、人間はもっと思いを致すべきであると思います。
ヨーゼフ・ボイスはそのことを文化的側面から憂いて
「エイセル湖の干拓でオランダの光は失われてしまった」と言ったわけですが
今や問題は文化的衰退に留まらず、人類が存続しうるかどうか
という所まで来てしまっております。
「コピーの時代」に生きている我々、その簡便さ、快適さを手放すことは
にわかには難しいことではありますし
「古き良き時代」に戻るということはどうしたって不可能なわけですが
ボイスのように、拡大や効率化の中に危機的側面を見る視点
即ち、表層的な利便性にのみとらわれず、
精神性ををとりこんだ社会の道行きを考える視点を
人類は持たねばなりませんし
反語的ですが、結局そうすることが最も合理的な道なのではないかと思います。
人類がこれからも、そこそこ長いこと地球上に存在し続けようと思うならば。



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