のろや

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ウォルシンガム話4

2011-04-10 | 忌日
4/8の続きでございます。


国務長官の激務にへこんでちょっと弱音を吐いたウォルシンガム、辞職の方は認められませんでしたが、その頑張りが認められて1577年、爵位を授かります。”サー”・フランシス・ウォルシンガムになったわけです。もっともこれ以降に彼が経験した様々なストレスをおもんばかると、サーと呼ばれるようになったぐらいじゃ見合わないような気がしますけどね。


17世紀に制作された銅版画。女王を挟んで向かって左がセシル、右がウォルシンガム。
国務長官、頬こけすぎ。

さて独立戦争が続くネーデルラントでは事態がいっそうややこしいことになりつつありました。今やセシルとウォルシンガムはエリザベスを実質的に支えるツートップとなっておりましたが、対外問題についての2人の意見は異なっておりました。
セシルはスペインとの決定的な対立をできるだけ避けたいと考えており、エリザベスもまたこの立場を取っております。一方ウォルシンガムは、スペインと仲良くすることは全く不可能と見ており、そのためネーデルラント問題にしても、対スペイン反乱の指導者であるオラニエ公をイングランドが軍事的にも財政的にもどーんと支援して、かの地からスペインの勢力をきっぱり追い出すべきだと前々から主張しておりました。

エリザベスが重い腰を上げてネーデルラント支援に乗り出すのは、ようやく1585年になってからのこと。ウォルシンガムや軍人肌の寵臣レスター伯がどんなに「ネーデルラントに派兵しましょう!」と息巻いても、エリザベスと財務大臣セシルにしてみれば「そんな金がどこにある」という所だったのでしょう。G.M.トレヴェリアン著『イギリス史』から、セシルとウォルシンガムの立場の違い、そして彼らの手綱を握るエリザベスのバランス感覚を簡潔にまとめた一文を引用しますと。

当時大陸で猛威をふるっていたカトリック的反動に対抗するピューリタン的熱意に動かされていたウォルシンガムは、プロテスタント的国民主義者のセシルと、「生粋のイングランド人」女王のあまりの用心深さをもどかしがっていた。彼はあらゆる危険と財政上の犠牲を賭けて、終始積極的行動を支持していた。もしエリザベスがあらゆる場合にウォルシンガムの助言を容れていたら、彼女は破産していたであろう。かといって、もし彼女がそれを採り上げなかったとしたら、それに劣らず破滅の憂き目を見ていたかもしれないであろう。全体として彼女は、自分のすぐれた大臣たちの双方の助言の中で最善のものを用いたのであった。
『イギリス史2』みすず書房 1974 p.85

ウォルシンガムが「ピューリタン的熱意に動かされていた」という点にはちと留保のある所ですが、その話はまたのちに。

ともあれ、ウォルシンガムはしばしば外交に際して自身の主張とは相反する指示を与えられ、その線に沿って働かねばなりませんでいした。1578年には、ネーデルラントの様子見&ごたごたを落ちつかせるために大陸へと派遣されます。
嫌がったのに。

またこれと前後してエリザベスとフランス王弟(前とは別の人)の縁談交渉が再び持ち上がり、女王の煮え切らない態度にここでもイライラさせられるウォルシンガム。しかもここ数年のことの成り行きに一番イラついているであろう彼が、仏王アンリ3世の意図を探る他、もろもろの交渉役という任務を背負って渡仏することに。
今度も嫌がったのに。

そもそも彼はサン・バルテルミの虐殺以来、フランス王室に対しては拭い難い不信感を抱いておりましたし、それを抜きにしてもエリザベスとフランソワの縁談に反対する理由はいくつもありました。
フランソワの兄である国王アンリ3世には跡継ぎがなかったため、フランソワはフランスの第一王位継承者でした。結婚賛成派の言い分としては「まず女王陛下とフランソワが結婚して、それからフランソワが王位に就けば、フランスが女王陛下の領土になるじゃん!」というごく楽天的なサセックス伯の意見から、セシルのようにこの結婚を女王自身が世継ぎを産む最後のチャンスと見なす意見、より消極的には、フランス側から持ちかけられた縁談を断ることによって、フランスがスペインと手を結んでしまうのではないかという恐れから縁談を支持するというものもありました。

ウォルシンガムはというと、すでに齢46に達していたエリザベスが無事な妊娠・出産をする可能性を疑問視しており、むしろ女王の身体を損なうことになりかねないと懸念しておりました。またサセックス伯とは逆に、相手がフランスの第一王位継承者であるからこそ、イギリス国王であるエリザベスとの結婚は不可能であるという見解に立ち、交渉なんぞするだけ時間の無駄ですよとハッキリ反対しておりました。ハッキリしすぎてエリザベスから叱責をくらったり、宮廷から遠ざけられたりしております。

それでも。
どんなにストレスフルな状況であろうとも、与えられた条件のもとで女王陛下およびイングランドのセキュリティのためにベストを尽くすのが国務長官ウォルシンガムです。
求婚者フランソワが「ネーデルラントに軍隊置いときたいから金貸して~!」と言ってよこせば、彼に紐をつけておくためにエリザベスから支援金を引き出したり(珍しくエリザベスに金を出させることに成功している)、息子のフランソワがネーデルラントもエリザベスも放っといてスペイン王女と結婚するべきだと考えていた王毋カトリーヌ・ド・メディシスを説得して英仏の友好関係の維持に努めたりと、右へ左へ奔走するのでした。

国内外に様々な対立要素が渦巻いていた時代において、エリザベスの優柔不断や出し惜しみは彼女流の曖昧戦略であったとも言えましょうが、ウォルシンガムにとっては女王陛下お得意の「曖昧・引き延ばし・出し惜しみ作戦」こそ何よりのストレス源だったようです。
エリザベスの金銭的・政治的出し惜しみを嘆じた「it is hard in a politique body to prevent any mischief without charges as in a natural body diseased to cure the same without pain 身体の病が痛みなしには癒されないのと同様、政治における禍いも代償なしに防ぐことはできない」というコメント、彼が実際に病を抱えていたことを思うと、なんだかしんみりするではありませんか。

大陸の方だけでもいろいろやっかいなのに、隣のスコットランドでもごたごた継続中。
ウォルシンガムはかねがね、旧教徒が多い上にフランスと浅からぬ繋がりのある隣国スコットランドを警戒し、スコットランド執政モートン伯と密に連絡を取り合っておりました。モートン伯、この人はイングランドとの協調路線を採っていた人で、その有能さをウォルシンガムは高く評価しておりました。

1580年、そのモートン伯がジェームズ6世の寵臣レノックス公らに難癖をつけられ、逮捕されるという事件が起きます。親イングランド派のモートン伯に対して、レノックス公はフランス帰り、しかも国王のお気に入り。さあどうするフランシス。

不安定化するスコットランド状勢を受けて、枢密院は1000人の兵をスコットランド国境に配置することを決議します。しかしウォルシンガムからその報告を受けたエリザベスは全く乗り気ではなく、派兵するにしても兵力を半分にしなさいと命じます。ウォルシンガムはその日のうちに再び女王に対して軍事的介入の必要性を説きます。それがエリザベスにはかえって鬱陶しかったのか、あるいは「いやいや、モートン伯は殺しませんから...」というジェームズ6世の言葉を信じたためか、エリザベス、結局1兵も送らないと決めてしまいます。

で、どうなったか。
ジェームズの口約束はあっさり破られ、モートン伯はギロチン送りとなり、これ以降、フランス帰りのレノックス伯らがスコットランド宮廷で幅を利かせることとあいなったのでした。(ちなみにギロチンという当時最新鋭の断頭マシーンをスコットランドにもたらしたのは当のモートン伯自身だったり)
ウォルシンガムはこの事態に「これでスコットランドは完全に失われたし、アイルランド喪失への大きな門が開かれた」と嘆じつつ、もはやモートン伯は救えないと判断するやレノックス打倒に的を絞り、スパイを使ってレノックス関連情報を集めつつ、スコットランドの反レノックス勢力であるウィリアム・リヴァンらへの働きかけを強めて行くのでした。

1582年、クーデターによってレノックスが失脚し、親イングランドのリヴァン政権がめでたく誕生。しかしその翌年には国王ジェームズ6世の逃亡によってこれまたひっくり返り、以降は17歳のジェームズが親政を始めます。親英(モートン)→新仏(レノックス)→親英(リヴァン)と1年おきのめまぐるしい政権交代ののち誕生したこの新政権に対して「フランスとはあんまりくっつくなよ、スペインとは仲良くするなよ」と釘を刺すため、またぞろ外交官として派遣されたのが誰あろうウォルシンガム。
ものっすごく嫌がったのに。

駐英スペイン大使メンドーサの報告によると、命令が下されたときウォルシンガムは女王の足下に身を投げだし、スコットランドに行くくらいなら絞首刑になった方がましです、他の場所で吊るされるよりイングランドで吊るされた方がましですから、と訴えたのだそうです。こんな時にブラックジョークを繰り出してくるあたり、実にイギリス人なウォルシー。
しかしかの地では2年前にイングランドの外交官が狙撃されるという事件が起きており、「吊るされる」というこの極端な表現もあながち冗談ばかりではなかったのです。

これより先、エリザベスは例の親英リヴァン政権から、レノックス伯がイングランド内に持っていた領地の譲渡、および一時支援金として1万ポンド、毎年の支援金として5000ポンド送られたしという要請を受けていたにもかかわらず、2500ポンド以上は出せない、というものすごい値切り方をしてかの地の親イングランド派を幻滅させておりました。ウォルシンガムは女王のそうした吝嗇ぶりを指摘し、今さら私が出かけて行った所で何もいい結果は出せないだろうし、悪い結果が生じたら全部私のせいになさるんでしょう、そんなん嫌です、と必死に訴えたものの、エリザベスは耳を貸しませんでした。

あのさあエリザベス。「危険で面倒な外交はとりあえずこいつに押しつけよう」と思ってないか。
まあ、我らが諜報局長は女王からそれだけ信頼されていたのだと解釈しましょう。内心「だからあの時ああ言ったのに...」とぼやきながら、またも病身を引きずってスコットランドに向かうサー・フランシスではありました。

ああ、可哀想すぎて笑えてくる。ごめんよ。


次回に続きます。


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