読書な日々

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『フィリップ』

2009年10月31日 | 現代フランス小説
Camille Laurens, Philippe, POL, 1995.
カミーユ・ロラン『フィリップ』(POL書店、1995年)

産院での医療過誤から誕生後数時間(実際は出産時に死亡していた)しか生きられなかったわが子フィリップの出産をめぐる数日そして出産前後の数時間のことを体験記風に綴った小説。

「私」はモロッコのマラケシュで出産の準備をしていたが、出産直前になって胎児に異常がみつかり、急遽パリの産院Xで出産をすることになる。何も問題なく出産できるはずだったのに、出産直前に胎児の心拍数が異常に高くなり、助産婦が担当医Lにそのことを知らせるが、Lは特別な処置をとることなく、また心拍数が安定したので、放っておかれ、出産したときには、男児は泣き声をあげることもなく仮死状態だった。すぐに処置が再生処置がとられたが、生き返ることはなかった。

医者からは特殊な溶連菌に感染していたことが原因だと説明されるが、助産婦はそんなことはいつもあることだとも言われる。心拍数の異常な亢進のときに、なんらかの手を打っていたら男児―フィリップ―は助かっていたかもしれないのに、帝王切開をすることもなく、かん止を使って胎児を早期に出すという手を打つこともなかった。

「小児科医が立ち去ったあと、Lはあれこれ新しい理屈を述べたが、それはどれも矛盾していた。帝王切開をしても子どもを救うには十分ではなかったでしょうね、結局は。(試してみる価値もなかったと私は理解しなければならないのだろうか?) いずれにしても、と彼は続けて言った、自分は「産科医であって、外科医ではない」からね。(彼は帝王切開の仕方を知らないと理解しなければならないのだろうか?) それに帝王切開は「女性にも危険が伴わないわけではない」ですよ。閉経後に出血する場合がありますよ。(子どもを持たないほうが、子どもが20歳になるころに親である自分が死ぬ危険にあうよりもいいと理解しなければならないのだろうか?)」(p.60-61)

さらに辛いのは、一緒につれて帰れるはずであった子どものいない生活が続くということである。だが、その死を書くというのは、いったいなぜなのだろうか? 別に医療過誤を告発したいわけではない。小児癌で亡くなった娘のことを書いたフィリップ・フォレスティエにしても、このカミーユ・ロランにしても、書くことは、不幸にして亡くなった子どもを人々の心に刻みたいからだろう。生きていれば、勉強をしたり、恋をしたり、冒険をしたりして、自らの力で人々の心に自分の存在を刻めるのだが、それができないから、せめても親である作家が小説という形でそれをしてやる。たぶん親としてはそんなことしかできないし、小説という形でなくても、なんらかの形でそういうことをしてやらなければ、親としての精神のバランスが取れないということだ。

「いかなる現実も作り出すことができないこと、それを作り出すことが言葉には可能だ。フィリップは亡くなった。泣いてください、これを読んでいるあなた、どうか泣いてください。あなたの涙が彼を虚無から引き出してくれますように。」(p.81)

最近は、ローランス・レヴィの『たいしたことは何もない』にしても、この前読んだばかりのヴェロニック・オルミの『かくも美しき未来』にしても、女性作家による一人称の告白的小説が増えている。たぶんこれまで言葉を奪われてきた女性たちが、言葉を奪われてきたこと、社会的な抑圧を受けてきたことへの反動として、自らを語るという方法で、言説の世界に参入してきているということなのだと思う。自らを一人称で語るというのは、もっとも手っ取り早い自己表現であるにちがいないが、いわゆる私小説風の手法はこれまでフランスでは存在しなかったわけで、しばらくはこうした傾向が続くのだろうと思う。

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