Charles Juliet, L'annee de l'eveil, POL, 1989, Folio 4334.
シャルル・ジュリエ『めざめの時』(POL書店、1989年)
演劇作品や詩集を多く出しているシャルル・ジュリエによる少年時代の思い出を小説化した作品である。1991年にはジェラール・コルビオー監督によって映画にもなっているらしいが、私は見たことがない。
農村で生まれ育ち、ずっと雌牛の世話をしながら毎日を過ごしていたシャルル少年が陸軍学校に入り、寄宿生活を送りながらすごした16歳の一年間を描いている。その多くは学校での上級生からや将校からのいじめの数々がエピソード的に綴られているが、全体を通して一貫している話もあり、それは彼の班の班長が目を掛けてくれて、ボクシングを教えてくれたり、自分の家に毎週日曜日には誘ってくれて、彼の妻と性的関係を結んでしまうという話がずっと基調として描かれている。めざめの時というのはそうした性的な目覚め、悪意に満ちた人間たちの存在にたいする目覚めということを意味するのだろう。
冒頭を読み出したときには、なんてひ弱な子どもなんだろうと思ったものだ。
「全ては10月のその朝に始まった。学校の120人の生徒たちは食堂に集まって朝食を取っているところだ。私はといえば、ひとりで廊下の壁に肩をおしつけて、泣いている。班長が私に気づいて、どうしたのか知りたがった。私は奴らに仕返しをされるのが怖くて、訳を言うのを拒んだ。だが班長はどうしても言えという。私はしゃくりあげながら次のような説明をした。毎朝毎朝のこと。司祭の求めに応じて私はミサを手伝いに行く。いつも少し遅れており食堂に帰ってくると他の奴らは私に何も残してくれていない。コーヒー、パン、いわしは跡形もなく残っていない。(...)班長は私を慰め、調理場に連れて行ってくれる。そこで砂糖入りのコーヒー、パンを好きなだけ、一枚のチョコレートを分けてくれた。(...)調理室を出るとき、私は新学期が始まってひと月になるが、初めて空腹を満たしたことに気づいたのだった。」(p.11-12)
しかし目をつけてくれた班長がかわいがってくれるようになり、ボクシングのトレーニングを受けるようになる。そして日曜日には彼の家に招待してくれる。彼には若い妻と幼い少女がいるが、ほとんど彼らの相手をすることはなく、昼食がすむと自室にこもって本を読んだりしているのだった。夫から優しくされていない若い妻はいつしかまだ少年っぽいシャルルを相手にするようになり、性的関係を結んでしまう。次に日曜日昼食後班長が部屋に戻って寝てしまうと、妻は娘をソファーで遊ばせているあいだにシャルルを外に連れ出す。
「私たちは木々のあいだを攀じ登った。冬の太陽がかなり暖かくて、杉の木からかすかな香が立ち上っていた。彼女は私の前を歩き小声で歌っていた。(...)家が見えなくなると、立ち止まって私を茂みのかげに連れて行き、大胆に欲求をさらけだした。
私は男と女が愛し合うのは暗闇に隠れて、ベッドの上に横たわってしなければならないものだと思っていたので、まっぴるまに外でやることもできるのだということをが分かって私の驚きはこの上なかった。」(p.51)
こうしてひ弱だったシャルル少年もボクシングと性的関係を通して自我の強い青年になっていく。あるとき第二次大戦を闘ってきた教師からナチが行ってきた虐殺のむごたらしさ、そしてそれに抵抗したレジスタンスたちの崇高さを聞き、人間にはどちらの要素もあることを忘れないようにと言われ、今後はけっしてドイツ語を勉強しないと決める。さらには班長がキャリアアップのために数ヶ月この地を離れて遠くに住まうことになると、妻との別れ、そしてそれまで班長がいたためになにも手出しをしなかったものたちからいじめられ、自暴自棄になってさまざまの悪事に手を染め、あげくは学校長にたてつき、2週間の独房入りを課されてしまう。あやうつ放校されそうになるのだが、その危機を乗り越える。
文章はオーソドックスで読みやすい。しかし1989年にいまさらなぜこんな小説が?しかも映画化?と首をかしげる。この年には『エル』という女性雑誌の女性読者賞を受賞したというから、また首をひねる。映画を見ても、きっとスケベじじいの私は班長の妻とのシーンにしか気が向かないだろうね。
この小説は1993年に大栄出版から翻訳されているが、他には彼の小説の翻訳はないようだ。
シャルル・ジュリエ『めざめの時』(POL書店、1989年)
演劇作品や詩集を多く出しているシャルル・ジュリエによる少年時代の思い出を小説化した作品である。1991年にはジェラール・コルビオー監督によって映画にもなっているらしいが、私は見たことがない。
農村で生まれ育ち、ずっと雌牛の世話をしながら毎日を過ごしていたシャルル少年が陸軍学校に入り、寄宿生活を送りながらすごした16歳の一年間を描いている。その多くは学校での上級生からや将校からのいじめの数々がエピソード的に綴られているが、全体を通して一貫している話もあり、それは彼の班の班長が目を掛けてくれて、ボクシングを教えてくれたり、自分の家に毎週日曜日には誘ってくれて、彼の妻と性的関係を結んでしまうという話がずっと基調として描かれている。めざめの時というのはそうした性的な目覚め、悪意に満ちた人間たちの存在にたいする目覚めということを意味するのだろう。
冒頭を読み出したときには、なんてひ弱な子どもなんだろうと思ったものだ。
「全ては10月のその朝に始まった。学校の120人の生徒たちは食堂に集まって朝食を取っているところだ。私はといえば、ひとりで廊下の壁に肩をおしつけて、泣いている。班長が私に気づいて、どうしたのか知りたがった。私は奴らに仕返しをされるのが怖くて、訳を言うのを拒んだ。だが班長はどうしても言えという。私はしゃくりあげながら次のような説明をした。毎朝毎朝のこと。司祭の求めに応じて私はミサを手伝いに行く。いつも少し遅れており食堂に帰ってくると他の奴らは私に何も残してくれていない。コーヒー、パン、いわしは跡形もなく残っていない。(...)班長は私を慰め、調理場に連れて行ってくれる。そこで砂糖入りのコーヒー、パンを好きなだけ、一枚のチョコレートを分けてくれた。(...)調理室を出るとき、私は新学期が始まってひと月になるが、初めて空腹を満たしたことに気づいたのだった。」(p.11-12)
しかし目をつけてくれた班長がかわいがってくれるようになり、ボクシングのトレーニングを受けるようになる。そして日曜日には彼の家に招待してくれる。彼には若い妻と幼い少女がいるが、ほとんど彼らの相手をすることはなく、昼食がすむと自室にこもって本を読んだりしているのだった。夫から優しくされていない若い妻はいつしかまだ少年っぽいシャルルを相手にするようになり、性的関係を結んでしまう。次に日曜日昼食後班長が部屋に戻って寝てしまうと、妻は娘をソファーで遊ばせているあいだにシャルルを外に連れ出す。
「私たちは木々のあいだを攀じ登った。冬の太陽がかなり暖かくて、杉の木からかすかな香が立ち上っていた。彼女は私の前を歩き小声で歌っていた。(...)家が見えなくなると、立ち止まって私を茂みのかげに連れて行き、大胆に欲求をさらけだした。
私は男と女が愛し合うのは暗闇に隠れて、ベッドの上に横たわってしなければならないものだと思っていたので、まっぴるまに外でやることもできるのだということをが分かって私の驚きはこの上なかった。」(p.51)
こうしてひ弱だったシャルル少年もボクシングと性的関係を通して自我の強い青年になっていく。あるとき第二次大戦を闘ってきた教師からナチが行ってきた虐殺のむごたらしさ、そしてそれに抵抗したレジスタンスたちの崇高さを聞き、人間にはどちらの要素もあることを忘れないようにと言われ、今後はけっしてドイツ語を勉強しないと決める。さらには班長がキャリアアップのために数ヶ月この地を離れて遠くに住まうことになると、妻との別れ、そしてそれまで班長がいたためになにも手出しをしなかったものたちからいじめられ、自暴自棄になってさまざまの悪事に手を染め、あげくは学校長にたてつき、2週間の独房入りを課されてしまう。あやうつ放校されそうになるのだが、その危機を乗り越える。
文章はオーソドックスで読みやすい。しかし1989年にいまさらなぜこんな小説が?しかも映画化?と首をかしげる。この年には『エル』という女性雑誌の女性読者賞を受賞したというから、また首をひねる。映画を見ても、きっとスケベじじいの私は班長の妻とのシーンにしか気が向かないだろうね。
この小説は1993年に大栄出版から翻訳されているが、他には彼の小説の翻訳はないようだ。