Annie Ernaux, La place, Folio 1722, 1983.
アニー・エルノー『場所』(ガリマール、1983年)
作家が自分のプライベートなことを事細かに、しかも同情を引くような形で書いて、読者の関心を引いたり、読者の覗き趣味を満足させるといった類の、いわゆる「私小説」というものは、フランスにはない。ロマンにせよヌーヴェルにせよコントにせよ、あくまでも作り物、虚構ということがフランスにおける小説の大きな伝統になっている。もちろん一人称による語りの小説は多くあるが、作家が自分のプライベートなことをことさらに回想して書いたようなものは小説とは呼ばない。
ところが、このアニー・エルノーの『場所』という小説はどうやら実際の自分の両親や自分の青年期までのことをそのまま書いた私小説のように思える。登場人物たちがすんでいた町はY...と表記されるが、それは彼女が実際に子供時代をすごしたYvetotという町のイニシャルである。私小説の伝統のないところに、こうした私小説のようなものを書いたことが、逆にフランス人に目新しい印象を与えたのかもしれない。彼女はこの作品で1984年のルノドー賞を受賞している。
Y...というノルマンディーの小さな町でカフェ兼食料品屋を営んでいた父親の死と葬式という出来事を枠組みとして作品の冒頭と最後におき、父親の少年時代から、妻(「私」の母親))との出会い、カフェ兼食料品屋の開業、「私」の誕生、時代の変化についていけない父親の様子、師範学校に入った「私」との精神的な解離、「私」の結婚出産などを回想して、最後に父親の死に戻ってくるという形をとっている。
1899年生まれの父は、貧しい農家の生まれで、早くから家の農作業などにかり出され、家から2Kmのところにある学校には途中までしか通わなかった。勉強は好きだったので、読み書きは習得した。12歳(最終学年)では祖父と同じ農場で働くために学校を辞めた。
結婚後に渓谷のある町に建物つきの地所を買い、カフェ兼食料品屋をはじめる。飲み物、食料品、パテ、お菓子などなどを売る。貧しい人々の地域で、掛売りがおおくて困ったらしい。それで店を妻に任せて労働者としてスタンダード石油の精錬所などに働きにでることもあった。
1939年にはすでに40歳になっていたために召集されなかったが、働いていた精錬所がドイツ軍に破壊され、ほうほうのていで逃げ出し、家族のもとに戻ってきた。その数ヵ月後に「私」が生まれた。
私が病気がちだったので、両親は地所を売ってY...に戻ることにした。ここのほうが風が強い風土で、河もないし、「私」の健康のためにいいと考えたからだった。1945年のことだ。町の中心から離れた所に、新たに家を買って、カフェ兼食料品屋をはじめた。
そしてこの頃から、父と時代の流れのあいだに、そして勉強がよく出来て、いつも部屋で本を読んだりしてすごすようになった「私」とのあいだに精神的な溝が出来るようになる。
そして「私」が師範学校に入って一人で住むようになって、初めて付き合っている男性を連れて両親のもとに帰ったときの様子は、学歴がなく、ただでさえ自分の言葉遣いがおかしいのではないか、人前でみっともない真似はできないと思っている父の緊張した様子がリアルに描かれている。
この小説を読んでいると、ちょうど20世紀の70年間くらいを生きてきた普通のフランス人、学歴もなく財産もなく、身一つでこつこつと働いてお金をため、自分たちが生活していく程度の家を買い、たまにしかヴァカンスには行かず、しかし教育費無料という政策のおかげで子どもを高学歴者にしつつも、一緒に暮らしていくという喜びは得られずに、死んでいく、普通のフランス人の姿が、個別的な事象を描いているにもかかわらず、普遍的なものとして見えてくるから不思議だ。
意外とだれもこういうものを書いてこなかったからこそ、日本的な私小説のような形式をもっているにもかかわらず、フランスで評価されたのかもしれない、という気がしている。
アニー・エルノー『場所』(ガリマール、1983年)
作家が自分のプライベートなことを事細かに、しかも同情を引くような形で書いて、読者の関心を引いたり、読者の覗き趣味を満足させるといった類の、いわゆる「私小説」というものは、フランスにはない。ロマンにせよヌーヴェルにせよコントにせよ、あくまでも作り物、虚構ということがフランスにおける小説の大きな伝統になっている。もちろん一人称による語りの小説は多くあるが、作家が自分のプライベートなことをことさらに回想して書いたようなものは小説とは呼ばない。
ところが、このアニー・エルノーの『場所』という小説はどうやら実際の自分の両親や自分の青年期までのことをそのまま書いた私小説のように思える。登場人物たちがすんでいた町はY...と表記されるが、それは彼女が実際に子供時代をすごしたYvetotという町のイニシャルである。私小説の伝統のないところに、こうした私小説のようなものを書いたことが、逆にフランス人に目新しい印象を与えたのかもしれない。彼女はこの作品で1984年のルノドー賞を受賞している。
Y...というノルマンディーの小さな町でカフェ兼食料品屋を営んでいた父親の死と葬式という出来事を枠組みとして作品の冒頭と最後におき、父親の少年時代から、妻(「私」の母親))との出会い、カフェ兼食料品屋の開業、「私」の誕生、時代の変化についていけない父親の様子、師範学校に入った「私」との精神的な解離、「私」の結婚出産などを回想して、最後に父親の死に戻ってくるという形をとっている。
1899年生まれの父は、貧しい農家の生まれで、早くから家の農作業などにかり出され、家から2Kmのところにある学校には途中までしか通わなかった。勉強は好きだったので、読み書きは習得した。12歳(最終学年)では祖父と同じ農場で働くために学校を辞めた。
結婚後に渓谷のある町に建物つきの地所を買い、カフェ兼食料品屋をはじめる。飲み物、食料品、パテ、お菓子などなどを売る。貧しい人々の地域で、掛売りがおおくて困ったらしい。それで店を妻に任せて労働者としてスタンダード石油の精錬所などに働きにでることもあった。
1939年にはすでに40歳になっていたために召集されなかったが、働いていた精錬所がドイツ軍に破壊され、ほうほうのていで逃げ出し、家族のもとに戻ってきた。その数ヵ月後に「私」が生まれた。
私が病気がちだったので、両親は地所を売ってY...に戻ることにした。ここのほうが風が強い風土で、河もないし、「私」の健康のためにいいと考えたからだった。1945年のことだ。町の中心から離れた所に、新たに家を買って、カフェ兼食料品屋をはじめた。
そしてこの頃から、父と時代の流れのあいだに、そして勉強がよく出来て、いつも部屋で本を読んだりしてすごすようになった「私」とのあいだに精神的な溝が出来るようになる。
そして「私」が師範学校に入って一人で住むようになって、初めて付き合っている男性を連れて両親のもとに帰ったときの様子は、学歴がなく、ただでさえ自分の言葉遣いがおかしいのではないか、人前でみっともない真似はできないと思っている父の緊張した様子がリアルに描かれている。
この小説を読んでいると、ちょうど20世紀の70年間くらいを生きてきた普通のフランス人、学歴もなく財産もなく、身一つでこつこつと働いてお金をため、自分たちが生活していく程度の家を買い、たまにしかヴァカンスには行かず、しかし教育費無料という政策のおかげで子どもを高学歴者にしつつも、一緒に暮らしていくという喜びは得られずに、死んでいく、普通のフランス人の姿が、個別的な事象を描いているにもかかわらず、普遍的なものとして見えてくるから不思議だ。
意外とだれもこういうものを書いてこなかったからこそ、日本的な私小説のような形式をもっているにもかかわらず、フランスで評価されたのかもしれない、という気がしている。