読書な日々

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『林芙美子 巴里の恋』

2009年12月27日 | 評論
今川英子『林芙美子 巴里の恋』(中央公論新社、2001年)

『放浪記』で有名な林芙美子が『放浪記』がベストセラーになって得た印税でパリに旅行して数ヶ月(1931年11月から32年5月まで)滞在したときの、林芙美子自身の日記、小遣い帖、夫への手紙などをまとめたもので、林芙美子自身は帰国後に『巴里日記』とか『滞欧記』などを発表しており、それらがかなり脚色されたり、省略されたりしていることが、分かるという。

そしてなぜ「巴里の恋」なのかといえば、夫の画家手塚緑敏を日本に残しての渡欧だったのだが、画学生の外山五郎を追ってのことだったという話もあるし、また滞在の後半にドイツのフライブルグに哲学の勉強に来ていた白井と恋仲になり、大方の知人たちは二人の性的な関係については否定的であるが、今川は4月25日以降の日記が破り捨てられていることや、その前後に二人が急速に接近していることなどから考えて、一線を越えてしまったことを推測している。それゆえの「巴里の恋」なのである。

貧困の作家というイメージがあったので、まさかパリに旅行して数ヶ月も滞在したなんて思わなかったのでその意外性が面白かった。ただなぜ夫を日本に置いて、突然の渡欧なのかと誰しもが思うのだが、一つにはそれだけ『放浪記』が売れたのだろうということと、外山五郎という画学生にたいする固執があったのだろうかと想像するばかりである。しかし日記を読んでいる限りでは、アルジャントゥユにいた外山の下宿に出かけて行ったが、彼から物を投げつけられたとあるように、外山自身がもしかしたら芙美子から逃げてパリにやってきたのではなかったのかと思わせる。そんな関係の男を追ってパリまでやってくるものなのだろうか? それならもっと外山に執着するはずだがという気もするが、日記からはそこまでは読み取れない。

ただ異国の地で別の男性を好きになってしまうというのはよくある話なので、ドイツに留学中で、休みにパリに遊びに来ていた白井という男と恋仲になってしまうのはありうる話しだし、それが性的関係になってもどうということはない。このあたりのことは、林芙美子研究者ならあれこれ調べたいだろうが、私にはどうでもいいことだ。

林芙美子がパリに着いたのは11月23日で、着くなりもう日本に帰りたいと繰り返している。冬のパリは陰気で寒いから当然だろうと思う。もっとよく調べてから渡欧すればいいのにと読みながら思った。4月とか5月にきて一夏を過ごしたら、きっと帰りたくなくなっていただろう。毎日日記に帰りたいと書いているので、いったいなぜやってきたのかといぶかしく思う。やはり男を追ってきたのか?

1931年といえば今から80年近くも前の話で、フランスの通貨もフランからユーロに、日本の通貨は円のままだが、一円の価値がぜんぜん違うので、小遣い帖も最初はどうかなと思ったが、当時の公務員の初任給が75円と書いてあったので、今の初任給を21万円として、また当時の1円が12.5フランとも書いてあるので、それを使って計算してみたら、当時と今の物価の差は約10倍になる。たとえばメトロが当時は距離によって料金が違うようだが、いろいろ記してあるなかで一番安い1.4フランで見ると、1.4フラン×17(以前は1フランが17円だった)×8=238円。現在のパリのメトロは1.4ユーロなので1.4×136円=190円。これで見ると、以前のメトロのほうが若干高かったということなのかもしれない。芙美子が11月23日から12月24日まで滞在したダンフェール・ロシュローのホテル・リオンの宿泊費が300フランと書いている。これは上の計算で行くと51000円になり、そんなものかなという気がする。

これを読むと、80年前のパリも現在とあまり変わっていないのだなという思いが強い。たとえばフランス語を勉強しようとしてアリアンスに行ったようだが、こんな以前からあったのだなと思うと同時に、現在もパリのアリアンスはラスパーユ通りにあり、そこは芙美子がいたホテルのあるブラール通り10番地から歩いていける距離にある。また私もいたことのある国際学園都市がすでにあったのも驚きだ。しかも日本館があったとは。また渡辺一夫が登場するのも面白い。

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