読書な日々

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『私の履歴書』

2015年12月28日 | 評論
桂米朝『私の履歴書』(日本経済新聞社、2002年)

1996年に人間国宝に認定され、2001年には喜寿を祝った記念に書かれたものだと思う。1999年には弟子の枝雀をなくしている。

生まれから解き明かして、子供の頃から落語好きだったこと、旧制中学から大東文化学園へ進学しても落語三昧の生活を送り、戦後も落語好きが嵩じてついに落語家に弟子入りしたこと、次々と年配の落語家が亡くなりほとんど何も知らない若手ばかりになって滅亡すると言われた上方落語を先頭になって牽引していった駆け出し時代から、ラジオ・テレビの普及によって土台を築き、70年代には独演会、「米朝十八番」、一門会と巨匠への道を確実に上がっていったことなど、まさに「履歴書」というタイトル通りの内容になっている。

天才肌だけど、家族をはじめ、周りのものを不幸にしてしまう芸術家とか芸人といった人が私はあまり好きではない。その点、米朝が気に入ったのはその研究者といってもいいような人柄なのかもしれない。枝雀もそうだ。芸風はもう飛んだり跳ねたりのすごい人だが、研究熱心なことはよく知られている。その点、談志のような、自分は天才だなんて自慢している人は大嫌い。談志のどこが面白いんだか。

枝雀のことはこちら

以前も書いたが、米朝の「鯉船」という落語をテープで何度も聞いているうちに自分でもやってみたくなって、結婚前の上さんの前で演じたことがあるが、米朝の落語にはそういうところがある。つまり、なんか簡単にできそうと思ってしまうのだ。枝雀の落語は最初から観賞用と諦めてしまう。もちろん米朝の味わいは出せるものではないのだが、簡単そうに見えてしまう。これもなかなかすごいことだなと思う。

米朝が亡くなった年なので、今年の米朝一門会では、演者がマクラにみんな米朝の話をしていた。息子の米團治が「それはもう大変な大往生でした」と言っていたが、私はこの「大往生」という言葉になじめない。大往生というのは「安らかに死ぬこと」である。つまりみんなが見守る中、静かに息を引き取ることを意味するのだろうに、「大往生」だいおうじょうという。なんか「だいおうじょう」という語感からイメージするのは、七転八倒して、顔なんか歪めて、もがき苦しんでいくというイメージだからだ。まぁそうではなくて、米朝は安らかに亡くなったそうだ。生前の人柄そのままに。

履歴書つながりで、枝雀の「代書屋」という落語が面白い。
桂枝雀 Shijaku Katsura 代書屋 落語 Rakugo



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