読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『乳と卵』

2009年06月17日 | 作家カ行
川上未映子『乳と卵』(文芸春秋、2008年)

芥川受賞作であるが、まぁそんなことはどうでもいい。私は『わたくし率イン歯ー』こそが芥川賞をもらうべき作品だと思っている『わたくし率』にくらべるとぶっとびかたが足りないから、まぁなんとかこれで選考委員たちの気持ちも胸をなでおろした、というところだろうか。なんとか受賞作にしてもあれこれ言われないですむというところだろう。

『乳と卵』の山場の一つは、何と言っても豊乳手術をしようという若い女性に別の女性がそれは男性中心主義的イデオロギーにあんたが丸め込まれているからや、いったいどうして大きな胸のほうが貧乳よりもいいと思うようになったのかそのいわれをきちんと考えたことあるのかという議論を「私」が思い起こすところである。ちょっとフェミニズム思想をかじったことのあるものならだれでも言い出しそうな言説ではあるが、それが突然、ヤンキーみたいにぶっとんだものいいをする若い娘の口から出てくると、それはそれでじつに新鮮な意味合いをもつようになる。そうやそうや、ほんとに私ら、当たり前に自分で考えてやっていると思っているようなことでも、じつはイデオロギーっていうん、コーロギーちゃうで、秋になると空き地で鳴いているやつな、あれじゃなくて、なんでいうたらいいんかしらんけど、というような感じで、ぶっとんだ話になるのが、この小説ではこの箇所だけなので、本当に貴重な場面であろう。

さらに、この小説の第二の山場は、なんといっても緑子の日記というかメモというか、そういうエクリチュールだろう。そこに見られるのは心身分離症とでもいえるような状態である。緑子は自分の意識と自分の身体をまったく別のものとして理解している。

「その日は一日不思議な感じやったのを、覚えてる。あたしの手は動く、足も動く、動かしかたなんかわかってないのに、色々なところが動かせることは不思議。あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどんどんどん変わっていく。」(p.46)

緑子というのは作者川上未映子のまさに自分自身が12・3才くらいのそうであった心身分離の状態を書いているのだろうと思うのだが、たしかに男にも体の成長に心のほうがついていかないようなときがあるものだし、夢精などといって、突然びっくりするようなことが起きたりするし、それはそれでだれにもいえないようなことであったりするので、一人でもんもんとするものもいたりするのだが、女の場合は、またもんもんの仕方が違うのだろうということがこうした小説を読むと分かる。

それにしても突然に生理が始まったときの対処の仕方をリアルに書いてみたりしてあるが、そのときの女性の心理、うっとうしいなというような気持ちはたぶんそうだろうなとは分かるが、それはまた実際には別物なのだろう。

それにしてもこの小説では女であることはなんとうっとうしことであるかというように読めるのだが、もしそうだとすれば、現代の女性がもし自分たちのことをそのように思っているとすれば、それはそれで男性中心主義的イデオロギーにまみれているということなのだろうか。

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