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『明治の御世の「坊っちゃん」』

2024年03月15日 | 評論
古山和男『明治の御世の「坊っちゃん」』(春秋社、2017年)


代表的な作品としては『猫』に続く第2作にあたる『坊っちゃん』も漱石の小説では一・ニを争う人気の小説である。

主人公「坊っちゃん」とは明治天皇のことであり、父であり「毒殺」された前天皇の孝明天皇の亡霊を「清」、兵士の血で染まっている「赤シャツ」は山県有朋、「野だ」は、日本を中国などのように、幕府と薩長による内乱を起こさせて、最終的には植民地化しようと考えていたし、薩長と手を組んで軍備増強させて巨富を手にしたイギリス、「山嵐」は孝明天皇を守ろうとしながらも、薩長によって朝敵にされて滅ぼされた会津藩主の松平容保、「うらなり」は「乃木希典」、「マドンナ」は「迷う女」つまり日露戦争で赤シャツに使い捨てにされて成仏できないでいる日本人兵士たちに、擬した能楽として読み解くという、斬新な研究である。

夏目漱石が、日露戦争に反対し、国民を戦争に煽り立てる新聞報道に批判的であり、反体制的で反権力的な個人主義を標榜したというような話はよく耳にするし、そうした研究もたくさんある。しかしここまでストレートに権力批判をした小説を書いたという分析は、驚きと言わざるを得ない。

しかし、この本を読めば、『坊っちゃん』『猫』『三四郎』などの作品が、「百年かけても斃さなければならない敵』に対する「権力の目をかすめて我理を貫く」巧妙な風刺であり、舌鋒鋭い果敢な体制批判であることが了解される。

『坊っちゃん』を書いた直後の漱石が「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。其内に立って花々しく打死をするか敵を降参させるかどっちかにして見たいと思っている。敵というのは僕の主張、僕の趣味から見て世の為にならんものを云うのである」という決意のもとにこれらの作品を書いていたというのだ。

『坊っちゃん』人気が出て、あちこちで評判になった頃に、この小説の登場人物たちのモデルとなっていると思われた当時の「松山中学」の校長だかが、抗議の文章を新聞に載せたという話を聞いたことがあるが、漱石はどう思っていたのだろうか。普通の読者なら、どうしたって「松山中学」の教員たちをモデルにしているとしか読めなかったらだろう。能楽や江戸戯作の心得のある人たちにしか漱石の真意が伝わらなかったとすれば、作者としてはそれも痛し痒しというところだろう。

こうした読みは、とくに現代においては、能楽の知識、言葉を符牒として読み直す言語感覚などが必要で、誰にでもできるものではない。「全編を解説つきの対訳にように通して書ければ流れが解りやすいかもしれないが、それはまたの機会としたい」とあるので、そのような対訳本を出すことも念頭にあるのかもしれないので、それを待つことにしよう。

夏目漱石が明治天皇・睦仁を「坊っちゃん」にしてこんな小説を書いた動機の一つに、天皇をまさに「錦の御旗」にして、天皇の意思などお構いなしに、国民を戦争に動員して、多数の兵士を湯水のように死なせ、国民に暴力を振るう権力者たちへの反抗であったということだ。

この本を読んで初めて知ったのだが、薩長の思い通りにならない孝明天皇は毒殺された可能性があり、明治天皇も日清戦争や日露戦争を望んでいたわけではないにもかかわらず、権力者たちが決めたことに従わざるをえなかったという。安倍晋三たちが「美しい国」などと耳触りのいい言葉で作ろうと計っている国のかたちも、このような戦前の日本、つまり天皇を利用して、国民の自由や幸福を奪い去って、権力者の思うがままに動かして戦争に動員できる(戦前と違うのはアメリカの戦争に動員できるということだ)日本なのだということが、見えてくる。

この本は、現代とは遠く離れた明治の小説を解き明かしているように見えて、じつは現代の権力者の意図も解き明かしてくれるという稀有な評論だと言える。



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