読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『やがて哀しき外国語』

2009年05月04日 | 作家マ行
村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社文庫、1997年)

1991年から93年にかけてアメリカのプリンストン大学に住んでいた頃のことを書いたエッセーを集めたもの。もちろんエッセーだから、そういうものとして読んでみようと思って読んだし、そういうものであったが、そういうものでないような発見もあった。

村上春樹の小説の読者はたとえば『ノルウェーの森』などを読むと、どうしても村上春樹自身が体験したことを書いているのだろうと思ってしまう。それは日本の小説の多くが私小説であることと関わりがある独特の現象だと思うのだが、いくら村上春樹が私小説嫌いだと言われても、でもあのような女性体験は作者自身のものではないのかな、いくぶんは実体験が含まれているのではないのかなと思いながら読んでしまうのは、日本の明治・大正・昭和の文学に慣れ親しんだものとしては仕方のないことだろう。

だから、こういうエッセーの中で、散発的にせよ、早稲田大学に入った経緯に触れて、小説をよく読んでいたから国語はそこそこできたとか、高校入学直後から英語のペーパーバックを読んでいたので、文法的な細かいところは別としても長文を読むことに離れていたから英語もそこそこできたとか、中央公論社の『世界の歴史』の愛読者であったので世界史も得意であったとか、だから国語・英語・世界史の三教科がそこそこできたから早稲田の文学部にはたいした受験勉強をしなくても入れたというようなことや、それでも国立大学に入ってもらいたがった両親の希望を尊重して一浪をして芦屋市立図書館に通って勉強しようとしたが身が入らなかったというような話を読むことができるのは、自伝みたいなものを書くような年齢でもない村上春樹のことを知るにはよかったということだ。

芦屋市立図書館って出て来た時には「あれ、小川洋子の『ミーナの行進』の例の「トックリさん」のいる図書館じゃないかと、しかもこちらは1968年であちらは1972年で数年のずれがあるが似たような時期なんだなと、まぁどうでもいいことなんだけど。

話はもとに戻るが、村上春樹のいやらしいところって、上のように、なんーもしてないよと思わせといて、じつはものすごく偏執的なところがあるくせに、そのことを何も言わないところだと思う。普通の中学生や高校生が『世界の歴史』を二十回も読むか?中央公論の『世界の歴史』っていえば、30巻くらいあるやつだよ。私もそのうちの数巻くらいないら読んだけど、全巻とうして読むのは、しかも何回も読むのは、マニアって言われるだろう。それに普通の高校生が英文のペーパーバックを読むか?私も高校に入って、漱石の『坊ちゃんの』英訳をペーパーバックで読み始めたけど数ページで挫折した。中学でちょっと英語ができたくらいでは無理なんだなとそのとき思ったものだ。初級文法を終えたくらいでペーパーバックは無理でしょう。それができたということは普通の高校生以上にけっこう英語ができたということだ。そういうことを隠しておいて(別に隠してないよといわれればそれまでだが)、高校時代にろくに勉強もしなかったけど(ってこの勉強というのは受験勉強ということでしょう)早稲田に入ったというようなことをさらっと書くところがいやらしいといっている。

同じことがジャズを聞かせるバーを経営しておいて、私はジャズのマニアではないと言ったりすることだ。そんなことができるくらいにジャズのことを知っていたりレコードを持っている人をマニアって言うんだよ。(なんでこんなに喧嘩腰なんだろうね?)同じことがアメリカの作家の翻訳を出しておいて、私は英語があまりできないといったりすることだ。

謙遜ということはある。いや謙遜というよりも、自分の本当の力を知る、なんでも物事は奥深いものだということを自覚するということはある。どんなにできると言ったってネイティブではないし、ましてやネイティブだからすべてを知っているわけではないという反省に立てば、アメリカの作家の翻訳をしているからといって英語ができると自慢することはないだろう。ただ村上春樹の場合はそういう、たとえば大自然の海原を前にした一つの貝に過ぎないと言ったと言われるニュートンの謙虚さとはちょっと違うような気がするのだ。たんに人から後ろ指を刺されないための謙遜というか、目立ちたくないというだけの謙遜というか。村上春樹が中学高校生のときに中央公論社の『世界の歴史』を二十回も読んだなんてことは、読者である私たちが知っておいてしかるべきことだといいたい。まぁこれはちょっと言い過ぎか。だが少なくともそのようなことはもっとはっきり言っておいていいことではないかと思うのだ。

なんか書いている自分も訳がわからなくなってくるとはこういうことを言うのだという見本みたいな文章になってきているから、そろそろ終わりにしておくが、このエッセーで唯一感心したのは、「スティーブン・キングと郊外の悪夢」というエッセーだった。日ごろから私が言っているソシオ・クリティックの現代版と言ってもいいのではないかと思うくらいに、スティーブン・キングという作家のホラー小説がアメリカ社会のどの部分を、どんな変容を作品世界に打刻しているかということを、実際に村上春樹がアメリカのプリンストンに住んで生じた考えの変化を導きの糸として説明しているところはけっこう読み応えがあった。アメリカの中流の白人たちが住む郊外の、のっぺりとした、どこでも同じような、そして一戸一戸が孤立したような住宅のありよう(それはそのまま人間関係のありようでもあるが)が、どんな人間が住んでいるのか分からない、それがまったく偶然に自分自身を、あるいはまったく無縁の他人を崩壊させてしまうくらいの不気味さをもっている、そういう世界があることを、スティーブン・キングのホラー小説は描き出しているという。

いま現在活躍している作家の小説をこのようにソシオ・クリティックの手法によって分析して見せるというのはなかなか難しいことだろうと思う。というのは、分析がしづらいほど分析者が対象と近すぎるということがあるからだ。たとえば村上春樹と村上龍の作品をこうした手法で分析した清水良典『MURAKAMI 龍と春樹の時代』(幻冬舎新書、2008年)だって、1960年代とか70年代という、2008年から見れば、過去の世代が対象になっているから可能だったとも言える。だから「いまここ」的な同時代の作品をソシオ・クリティック的に批評して見せたこのエッセーは、さすが作家としてのカンの鋭さを垣間見せるものだったのかもしれないと感心しているわけなのだ。

スティーヴン・キングについては「スティーヴン・キング研究序説」が参考になる。


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