読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『サルトルとボーヴォワール』

2011年12月08日 | 映画
『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』

昨日、梅田スカイビルにある梅田ガーデンシネマに『サルトルとボーヴォワール』を見に行った。たまたまサービスデー(入場料が1000円)でほぼ満員。たいていは私くらいの世代の女性たちがたくさん来ていたが、なかには学生らしき人たちもいた。いまでもサルトルとかボーヴォワールなんて読む人がいるのだろうか?

私が学生の頃はサルトルとカミュといった実存主義人気の最後の時期で、例に漏れず私も Aujourd'hui maman est morte, ou peut-etre hier, je ne sais pas.を見て、これなら原文でも読めそうとカミュの『異邦人』を卒論で書いた口なのだ。とは言っても、ボーヴォワールは知り合いに『第二の性』のことを話している人がいたので、ちらっと見たことはあるが、まじめに読んだことはない。数年前に若桑みどりの本を読んでからちょっと興味をもったが、なかなかとっつきにくくて。その点ではサルトルだって同じことだけど。『存在と無』なんてとても読めない。『嘔吐』は読んだけど、面白くもなんともない。観念が先走った小説の典型みたいなものだ。

さて、映画の方は、時代の雰囲気というものを出すために必要なセッティングはできていた。というかそういうことは最近の映画では当たり前になっている。ただこの映画にとって最も重要な時代の雰囲気というのは、ボーヴォワールが必死になって抵抗した家父長的男性中心主義ではないだろうか。それをまず前面に押し出してボーヴォワールが戦う敵を画面に提示しておかないと、ボーヴォワールがあれほど必死になって何に抵抗しているのか観客に見えてこない。その点がこの映画の最大の欠点だと思う。しかも映画にとって最も重要な「つかみ」である冒頭の数分間にそれが見えてこない。ボーヴォワールが必死に抵抗している・闘っていることは分かるのだが、いったいなにに?下手をすると、たんに親に抵抗している反抗期の娘としか観客が見てくれないという、最悪の事態になりかねない。わずかに友人のローラが母親のいいなりにさせられて死んでしまうというエピソードを入れることでそれを提示しようとしているのかもしれないが、それはローラのことであって、シモーヌのことではない。

こういう実在した有名人を主人公にした映画の欠点は、有名なエピソードだけを並べてオシマイというところにあるのだが、この映画もそんな感じだった。カミュが出てきたり、ポール・ニザンが出てきたりしたが、べつにそっくりさん大会をしているわけではないので、特別な感慨はなかった。

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