仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

音で届くその姿

2020年12月26日 | 浄土真宗とは?

早朝、5時過ぎからのウオーキング。救急車のサイレンを聞きながら、次の仏教標語(西原作)が浮かんで来ました。

 

「ピポーは救急車 南無阿弥陀仏は阿弥陀さま 音でとどくその姿」

 

その時ふと、昨日紹介した『名前で読み解く 日本いきもの小百科』の文章を思い出しました。それは音がそのまま名前となった生き物です。以下転載。

 

名前自体、さえずりを「ほどとき」と聞かなし、カラスやウダイスと同様に、鳥を意味する接尾語「す」を足して「ほととぎす」と呼んだのが語源と考えられています。

 根拠のひとつは、

暁に名告(なの)り鳴くなる霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしく思はゆるかも

 という古い和歌(『万葉集』巻18)ホトトギスが自分の名を呼んでいるというのです。(以上)

 

次は犬です。以下転載。

 

幼し子どもが最初に覚える言葉のひとつが「ワンワン」です。まだ実物に出合ったことがなくても、まわりの人がイヌの絵やぬいぐるみを指して「ほら、ワンワンだよ」と教えます。

 あながち幼児語とは言い切れません。おとなだって「ワン公」や「ワンコ」を多用します。ちなみに「公」は敬称の一種で、ワン公は動物を擬人化した呼び方です。

 イヌという名前自体、鳴き声に由来するという説が有力です。江戸時代の国学者、高田与清(一七八三年~一八四七年)は、吠え声を「ウェヌ、ウェヌ」と聞きなして「宇恵奴」の名が付き、宇恵奴(ウエヌ)~→宇奴(ウス)→以奴(イヌ)と変化したのだ、と推量しています(『松屋叢考』一八二六年)。

 また漢字の犬は、イヌが耳を立てた姿をとらえた象形文字ですが、音読みのケンは、やはり声と関係が深そうです。(以上)

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聞きなし

2020年12月25日 | 日記

『名前で読み解く 日本いきもの小百科』(平田剛死士著・平凡社新書)に次のような記述がありました。

 

鳥のさえずりを語呂合わせで覚える方法を「聞きなし」といいます。ウグイスの「法、法華経」、センダイムシクイの「焼酎一杯ぐいーっ」、ホオジロの「一筆啓上つかまつり俟」。ツバメの「土食って虫食って渋―い」と傑作ぞろい。野山で実際に耳にした時、まるで鳥が歌詞を唱えているように聞こえてしまうほどです。「てっぺん駆けたか」と聞きなされているのがホトしギスです。別バドジョンの「特許許可局」も有名で、確かに創作意欲をかき立てる複雑なフレーズで鳴き続けます。(以上)

 

この本で「聞きなし」という表現を初めて知りました。ネットで検索すると「聞きなし辞典」まであり、いろいろとあるものだと思いました。コジュケイー- 「ちょっと来い、ちょっと来い」、メジロー「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛」などなど。検索してみてください。

 

 

ツバメの鳴き声を「ハーシーブイシーブイ(歯渋い)」と聞いて、巣作りのために藁と泥をくわえたのでそう鳴いているともありました。

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ののさま

2020年12月24日 | 浄土真宗とは?

本願寺新報元旦号が届きました。一面の「赤色白色」の原稿は、私の執筆です。昨年から元旦号とお盆号は私に回ってきています。内容は、みなこのブログで紹介したことです。原稿を書く時は、辞書代わりに自分のブログを参照しています。以下、掲載原稿の転載です。

 

「ののさまにおまいりしようね」と、家族で仏さまに手を合わす新年の朝。この「ののさま」は、「のんのんさま」が短くなったもので、「のんのんさま」は「のんさま」をくり返したものだという(中西進著『美しい日本語の風景』)。

 「のんさま」とは、昔、式部省という役所があって、これを「のり(法)のつかさ」といったが、一般の人々は「のんのつかさ」と発音したという。このようなことから、「のんさま」が「のんのんさま」となり「ののさま」となったようである。

 浄土真宗の「ののさま」は阿弥陀仏だが、「無量光仏」ともいい、親鸞聖人は十二の光でその特質を明らかにされた。その一つ「智慧光」をかなえるご和讃に「光暁かぶらぬものはなし」とある。光暁とは、闇が破られていくこと。暁は現代ではやや明るくなってからを指すが、古くは、暗いうち、夜が明けようとするときのことだ。月明かりのない真っ暗な闇の中で、次第に陰の輪郭が明らかになっていく。暁では、その陰を通しで、光の存在を知るのだ。

 これと正反対なのが、ホワイトアウト現象。雪や雲などによって視界全体が白一色になる現象で、光が乱反射して視野が遮られ、1メートル先さえ見えなくなる。つまり、陰がいっさい失われて、天地の区別右方向感覚も喪失してしまうのだ。私たちは陰があるから光を知り、その陰に導かれて歩むことができるのである。今年も「ののさま」のみ光に照らされて、私という陰を知らされ、導かれながら、一歩一歩を大切に歩んでいきたい。   (N)

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錯覚する脳③

2020年12月23日 | 日記

『錯覚する脳』のつづきです。以下転載です。

 

この「甘い」という感じは、決して自然界には存在しない。糖分という化学成分は身体のエネルギー蓄積のために有効だから、「糖分」という化学量として知覚するのではなく、「甘さ」というポジティブな味覚として感じるように、脳の情報処理機構が決めたことなのだ(甘いものが嫌いな人にとってはネガティブだろうが)。

 

 

痛みは時間が経ってもあまり慣れないが、味覚や嗅覚はしばらく経つと慣れる。これを順応という。適応ともいう。もちろんこれは味覚や嗅覚に特有なものなのではなくて、視覚だって明るさに慣れるし、聴覚や触覚だって同様の特性を持つ。いずれも、慣れた方が人間にとって都合がいいから、慣れる。

 好きでない食べ物だって、それしか食べられないときには無理やり慣れるしかないし、臭いところに住んでいるのだったら、やはりそれに慣れるしかない。外国に行くと、欧米でもアジアでも、国ごとにそれぞれ独特のにおいがある。アメリカも、中国も、なんだか町中から独特のにおいがして最初は閉口するのだが、すぐに慣れてしまう。日本にも日本のにおいがあるのかもしれないが、日本人にはわからない。

 家もそうだ。自分の家の臭いにおいにはなかなか気がつかないので、気をつけたほうがいい。

体臭や口臭も。

そういえば、欧米人にとっては味噌汁は臭いらしい。はじめて聞いた時にはショックだった。

 納豆が臭いと感じる人がいるだろうことは、日本人にもわりと容易に想像できる。誰のまわりにも、一定数の納豆嫌いがいるからだ。

 しかし、私たちの慣れ親しんだ味噌汁が臭いとは、意外だった。癖のある匂いなどほとんどしないではないか。それに、味噌汁が嫌いという日本人などみたことがない。これがまさに慣れなのだ。

 味噌は発酵食品であって、納豆やブルーチーズと同じように、慣れない人には臭いにおいと感じられる場合があっても全く不思議ではない。それなのに、私たち日本人は、味噌汁の味に幼いころから親しんできたために、味噌汁が臭い食品だなんて気付きもしない。私の場合は、小さいころに、チーズは臭くて食べられなかったというのに。(以上)

 

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錯覚する脳②

2020年12月22日 | 日記

図書館から借りてきた『錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった』(前野隆司著)の続きです。以下転載。

 

小さい子供にお母さんが「痛いの痛いの飛んでいけ~」といいながらさすってあげると、子                                         

供は「痛いのが飛んでった」とけろっとしているが、子供の機嫌がよくなるのは、気がまぎれるからだけではない。

 さすると、痛みを司るニューラルネットワークに対して抑制性の上位入力が伝わり、その結果、痛みが数十パーセント和らぐ。これは、ゲート・コントロール説と呼ばれ、生理学的な研究により古くから知られている。気がまぎれて痛みを忘れるだけではなく、実際に痛みが低減されるのだ。

 実際、私の研究室でも実験してみた。ものを指の上に落としたときに、痛みが時間とともに減少していく様子を、VAS法(ビジュアル・アナログ・スケール法)という、スケールの両端を「無痛」と「最大の激痛」として被験者に提示し、しるしをつけさせるという簡単な方法で調べてみた。その結果、さすると確かに痛みの大きさ自体が低減した。また、被験者にあらかじめ運動をさせたり、計測中に運動させるなど、他のことに注意を向けるような状況に置くと、明らかに痛みのレベルは減少した。

 もしかして、気がまぎれることよりも、物理的にさすることの方が重要なのではないかと思い、いろいろと条件を変えて実験をしてみた。

 人が直接さする場合、人に操られたロボットがさすり、被験者は、人に操られたロボットがさすっていると正しく理解している場合。人に操られたロボットが触っていますよ、と被験者には言うけれども、本当はロボットが自律的にさすっている場合。ロボットが自律的にさすり、被験者も、ロボットが自律的にさすっていると知っている場合。ロボットが自律的にさすっていますよ、と被験者には言うけれども、本当は人に操られたロボットがさすっている場合。 ややこしいが、いろいろと試してみたところ、被験者が、人にさすられている、あるいは、人に操られたロボットにさすられていると思っているときに、痛みの軽減効果が大きかった。 たとえば、人がロボットを遠隔操作している場合に、ロボットが自律的にさすっていますよ、とウソをついたときよりも、事実を伝えた場合の方が、痛みは軽減された。また、同様に、口ボットがウィーン、と自律的に動いている場合に、事実を伝えた場合よりも、このロボットをヒトが操っていますよ、と被験者にウソをついてだましたときの方が、痛みは軽減されたのだ。

 つまり、物理的にさすることも重要だが、人が触ると思うことによる精神的な安心感が重要らしい。

 したがって、大人も子供も、「痛いの痛いの……」とおまじないをいって、さすったり他のことに注意を向けさせたりすれば、痛みを和らげることができるのだ。(以上)

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