仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

アルフレツド・ブルーム

2020年12月10日 | いい話

法話メモ帳より

 

有縁インタビュー(築地新報)

 

宗教学者 アルフレツド・ブルーム

 

私と浄土真宗

1926年生まれ、本派僧侶。ハーバード大学で仏致を専攻しフルブライターとして龍谷大学に留学。ハワイ大学で教鞭をとる。

 

 阿弥陀如来との出会い

 私はアメリカ合衆国のフイラルフィア生まれですが、ここは古くからキリスト教が根付いた土地柄で、母も熱心なバプテスト教会のメンバーで原理主義的な信仰をもっていました。私も家庭の信仰を自然に受け入れ、幼いときから【聖書は間違いない】「キリスト教以外に真実はない」という考えをもっていました。

第二次大戦中に、私は兵役で日本語を九ヵ月勉強し、戦後になって進駐軍として日本に来ました。そのころ私は占領軍の中にも組織のあった「キリスト青年運動」に入っていて、軍務の合間に、英語を学びたい人々に教会で教えながら、集まった人たらにキリスト教の教えを伝えるという活動をしていました。

 ある日、東京郊外の教会で「神の恩寵」について話をしましたが、聞いていた牧師が「いまあなたが話したことは阿弥陀如来の教えに似ている」と感想を述べました。

 当時の私にとって、神は比較することのできないものでしたから、その言葉にがっかりしたことを憶えています。その後、その牧師に会ったことはありませんが、それが「阿弥陀如来」ということを聴いた始めとなりました。

 その後、軍隊を退役して、バプテストの非常に厳恪な神学校に入りました。しかし根本主義的キリスト教に疑問を感じ、新たな聖書の読み方を学ぶためにバプテストとコングリケーショナルの神学校に移りました。さらにより自由なハバード大学の神学部に移り、ここで初めて仏教について学びました。友人から出版されたばかりの『英訳真宗聖典』のコピーを手に入れたのもこのころです。

 一九五七年、フルブライト留学生として龍谷大学で学ぶことになり、大原性実先生、二葉憲香先生らの援助を得て「親鸞の純粋な恩寵の福音」というテーマで博士論文を書くことができたのです、恩寵と福音というキリスト教者の言葉をあえて使ったのは、救いとはキリストの独占物ではないというメッセーニンをキリスト教者に贈りたかったからなのです。この論文は日本語に訳され「親鸞の浄土教」という書名で永田文昌堂より出版されました。

 こうした経験の中で、小さいころより目指していた宣教師になることを止め、オレゴン州立大学で「宗教哲学」を教えることにしました。のちにハワイ大学に移ったのですが、この間、常に仏教と親鸞聖人の教えについて考察を深めていったのです。

 

真宗者となる

 ハワイには多くの本派本願寺のお寺があります、私はそのお寺に集うメンバーの生活に接し、仏教の生きている信仰を見ました。彼らは非常に内面的で、自分のことがよく分かっていました。また信念があり、同時に慈悲的でもあり、お寺のために熱心に活動されていました。

宗敦は外から眺めている間は「いのち」が感じられません。しかし私は生きた信仰をもつ人々に接することによって、私の願い、理想と同し思いを彼らの上に見たのです。

 そうして私は浄土真宗のものとなりました。

 仏教の中にも「救い」というものがあります。その「救い」は、一見キリスト教と似ていますが、重要な違いがあります。神は客観的なものであり、また性格があります。

 それに対して阿弥陀仏は神話をもって現れます。私たちには真実は分かりませんから、神話というのは大切です。自然・色のない法身・真実が、神話をもって人間の考えの中に働くのです。これは極めて宗教哲学的です。

 また、私たちが話し合うとき、現実と私の現実についての解釈との間にはギャップがあります。他の人にも同じように現実の解釈があります。私か正しいのでもなく、他の人が間違いというわけではありません。

 こういったことに対して仏教は非常に寛容ですが、キリスト教は寛容的ではありません。この点でも仏教は私にとって意義深いものです。

 原理主義はもともとの教えにはありません、人間の排他的思い込みが教えの中に投影されるのです。仏教は原理主義を打ち砕く思想をもっています。絶対的なものにこだわっていては論議はできません。

 仏教には八万四千の法門がありますが、仏教の寛容性の現れだと思います。一つの真実はないということです。

 

真宗は「人間関係の基盤」

 親鸞聖人はたいへん現実的な人です。自らを凡夫、悪人と意識すると独断的態度はとれません。利己的なものがあるということを認めるからやさしく話し合いができるのです。

 「私が正し」ければ話し合いはできません。こういった意味からも人間関係の基盤に真宗は役に立つと思います。他の人々と協力すれば何でもできるはずですから。

 また親鸞聖人は「還相」を強調します。キリスト教では、神と永遠に暮らす天国に行くために信ずるのですが、これは利己的だと思います。そこには「自分の救い」しかありません。

 一方、阿弥陀仏には「他の人を救わなければ、正覚をとらない」という願いがあります。この願いは「私」の問題なのです。他の人と一緒だということです、これは仏教の根源的教えである縁起の神話的発現です。

 一般に、キリスト教の信仰をもつ人は、慈善活動に熱心だと思われていますが、私にはキリスト教信仰そのものの中に社会正義は見いだせません。

異端者が弾圧されました。信仰はあくまで 「神と私の関係」であり、社会的福音は否定されます。キリスト教の社会に対しての思想は大変複雑です。社会に対する考えは、聖書には見い出せますが、制度的には実現されてこなかったのです。十七世紀頃より現代に至るまで進歩的で自由な立場を取る人々の間で社会に対する思想は大変強くなりましたが、それが全てのキリスト者によって支持されている訳ではありません。

 他宗教との比較において、仏教は社会的に消極的だと批判されますが、私はその考えには賛成できません。たとえば無量寿経に説かれる、法蔵菩薩の願いは社会性をもっています。かつて王様であった法蔵菩薩は人々の悩みを解決するために出家したのです。

 法蔵菩薩の誓いを説く「重誓偈」に「普済諸貧苫」という誓いがありますが、これはまさに社会的考えです。貧乏な人、それは精神的、経済的なものであり、それを救いたいという願いであり、理想の社会を創りたいという願いなのです。

 さて現在、アメリカでも仏教に対する関心は深まっています。しかしその中心は禅やチベット仏教です。瞑想する施設は広くアメリカの各都市にあります。一方、浄土真宗はミッション(開教)と名乗っていますが、本願寺の信徒であった人を対象に法を説いていますので、真の意味のミッションとなっていません。

 浄土真宗は普遍的教えです。戦前は日本人に対する強い差別がありましたから、そういう意味で日本人がみ教えを中心に集まっていたということは分かりますが、これはいまの時代に即する考えではありません。 いまのハワイでも葬儀、法要、結婚式などが中心で、いわゆる家族の宗教を前提とした活動なのです(一八九九~一九三二年にアメリカ開教で活躍された今村恵猛師という日系人以外を対象に教えを説いた方もいましたが)。

 真宗が世界的にどう働きかけていくか、その方策がいまはまだないのです。そういった思いもあって私は現在、仏教伝道協会の助成を得てハワイで仏教講座を開いています。こういった活動がひろく仏教を学ぶ教育の場になればと考えています。

         構成 酒井 淳

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