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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

なぜ気づかなかったのか

2020年03月21日 | 日記
早朝のウオーキング、ヒバリと鶯の鳴き声が響いていました。「いままで、こんなことに何故、気づかなかったのか」ということが、タマにあります。2.3日前に気づいた事です。

JRの株主優待券があります。100株に1マイ送ってきます。JR東日本であれば、一枚に2割引で、2枚まで同時に使う事が出来ます。つまり4割引(乗車券、グリーン券、特急券)です。

JR東海は、一枚に1割引で、2枚まで同時に使う事が出来ます。つまり2割引(乗車券、グリーン券、特急券)です。

JR一西日本は、1枚で5割引、一回1枚使う事が出来ます。また系列のホテルであれば、宿泊優待1枚で、1泊1室の基本室料を30%割引になります。

これは知っていました。気づいたのは、ヤフオクのオークションに出品されていて、一枚500円程度で落札できるという事です。

優待券は、発行から一年間5月31日まで有効なので、優待券を持っている人は、さばかないと価値がなくなるので、出品に及ぶというわけです。

ヤフオクで「株主優待券」で検索すると、「ANA 全日空 株主優待券」等、色々あります。これは色々と利用出来る、良い発見でした。
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日本人の他者関係

2020年03月20日 | 現代の病理
午前2時過ぎに目覚めることが多くあります。そのような時は、スマホで「らじるらじる」の「過去の放送」を聴くことが、二日に一度くらいあります。昨日、久しぶりに過去の放送『宗教の時間』を聞きました。

「自分を裏切らない言葉を求めて」基督教独立学園 前校長…安積力也(3月15日分)です。その放送の中で、次のような言葉がありました。

『宗教の時間』を、すべて活字にして下さっている方がいて、その中からの引用です。

http://h-kishi.sakura.ne.jp/s-220.htm

大学時代一人の哲学者に出会ったことを通じてなんです。森有正(もりありまさ)(哲学者、フランス文学者:1911-1976)という先生です。(中略)

この先生がですね「日本人の他者関係」他者をどうやって自分が作り出していくかと、お互いに。その原理的なものといいますか、基本的なものというのは、実はこういうような特殊なもんだ、ということをおっしゃって、その哲学的に分析され、それを一言で「汝(なんじ)―汝(なんじ)関係」と言われたんですよ。「俺―汝関係」というのは、例えばユダヤ系の宗教哲学者のマルティン・ブーバー(オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者)という方が「我と汝」という形で「私・あなた」という人を呼びかける存在として、私がいて、そして呼びかけられるこちらに「あなた」と言ってくれる他者がいる。こういう他者関係こそが、本当の人格的な関係性だ。ところが森先生は、実は私たち日本人の中に深く根付いている他者関係というのは、「我―汝」じゃなくて、「汝―汝」関係だ。どういうことかといいますと、私が理解した内容でいうならば、向き合った相手といたら、相手が見ている私が居るわけです。私は相手に映っているであろう私を相手に向かって、いわば演じるのです。そして同じことを実は相手も私に向かってやっている。相手に映っている私を、お互いに往きあうような関係、
 
結局既に私が知っているあなたですよ。こういうふうにしているあなたと、すでに相手に知られている私と、相互に確認することで、安心して安定する関係。本来私たちは、変わって成長していく存在であるのに、互いに変わることを許さない関係。だから結果として、何かあなた好みの私を、一生懸命お互いに往きあうような、そういう意味で、ものすごい親密さをもった関係、それこそが本当の人間関係だというものが、日本人の中には色濃く残っている、ということを指摘されて、しかもそれが日本社会の場合、縦関係―縦社会の関係―の質と連動してですね、それを忠実に保持していくことが、日本人が倫理になる。つまり日本の社会が求めるものは、互いに合わせあうことによる同質的な関係性だ。

同じ色になること。それが大事な人間関係づくり、目指すことだ。このような人間関係の基本というのは、排他性が非常に強くなる。私も喋りながら浮かぶんだよ。もう学校で新入生を迎えて、その新入生―新しく入ってきた子たちが、どういう形で仲間づくりしていくかというのを見ていくとね、見事にこの原理です。そうやって仲間を作って、それに固着していくという。それこそ戦争前からずーっとある非常に原理的な人間関係づくりが、今の子供たちもそれに乗ってしか、お友達関係作れないといいますかね、それほど根深いものとしてある。(以上)

すごい指摘だと思います。森有正先生の本じゃ、図書館にあるのですが、図書館は休みなので落掌できません。残念。
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偏見の構造―日本人の人種観④

2020年03月19日 | 現代の病理
『偏見の構造―日本人の人種観』 (NHKブックス 55・1967/1・我妻 洋著, 米山 俊直著),転載はこれで終わりです。

偏見はさけられる

 偏見は避けうるものであり、避けねばならぬものである。(中略) このように。本来の形のままでは、社会にとって不都合な衝動や欲求を、社会に肯定される形のものに変化させて表出することを「昇華」というが、自己の中に攻撃的衝動や怒りや敵意のあることを自覚して、これの統御に努め、かつ、これを昇華する方が、無闇にこれを抑圧し、フリ向けるよりは、ずっと健全な、合理的な生き方なのである。そのためには。個人の「自我」が、自分の中に攻撃衝動を認めることを恐れず(恐れると、ただ抑圧する結果になる)、かつ。その緊張に耐え、これを昇華しうるだけ、健全で強縁でなければならない。強く健全な自我を持つものは、憎しみのフリムケをせず、したがって偏見を持たない。偏見の強いものは、その自我が弱く未熟なのである。

 ユダヤ人に対して強い偏見を持つ人々には、共通の性格特徴が認められた。偏見の強い人々は、親とか、政治的指導者とか、宗教的指導者とか、何らかの「権威的存在」を美化し、理想化し、これを無批判に崇拝する傾向が強い。これは、彼らが根本的に自信に欠け、自分が無力だという感情が強いために、自分よりも大きく強い権威に無条件に頼り、その庇護を求めようとするためである。また、彼らは自分の内心を検討したり、自己反省をするのを嫌い、心配事や悩みが生じた時にはそれととりくむことをせず、何か別のことで気を紛らせ、問題を回避する傾向が強い。これは彼らの自我が弱く、自己内部の葛藤に直面し、これを処理する力がないために、これを単に抑圧したり、あるいは、これから逃れようとするためである。(以上)

偏見や差別を無くすということは、良く言われますが、偏見や差別の元が解決されなければならないという事でしょう。
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偏見の構造―日本人の人種観③

2020年03月18日 | 現代の病理
『偏見の構造―日本人の人種観』 (NHKブックス 55・1967/1・我妻 洋著, 米山 俊直著)の続きです。

欲求不満と差別

 の人々や、朝鮮人に対する、日本人のいわれない嫌悪や、軽蔑や、差欲求不満と差別。アメリカの黒人に対する、白人の非合理的な憎しみやさげすみ、その他、世界の各地に認められる、差別と偏見、集団同志の敵意や衝突は、右に詳しくのべたように、集団内部の憎しみが外部にフリ向けられて生じているのである。
 したがって、政治的、経済的、あるいは、その他の何らかの理由で、一つの集団のメンバーが、強い欲求不満を経験し、その結果、強い敵意や怒りが生じると、外にフリ向けられる攻撃的傾向も、また、烈しくなる。明治維新直後の諸制度や慣習の、急激な変革が生んだ社会不安と、経済的困窮の中で、続出した“民差別”事件や、関東大震災における、朝鮮人の大量殺戮も、この例である。アメリカ南部でも過去において、経済的不況時に、黒人私刑(リンチ)の数が多くなる傾向があった。
 
 アメリカ南部において、不況の時に黒人リンチがふえたり、ナチ政権下のドイツで、ユダヤ人迫害が烈しくなったという具合に、同じ一つの社会についても、その社会のメンバーの「欲求不満→敵意→敵意の抑圧→敵意のフリ向け」の程度が、種々の条件によって変化するのと同じように、また、そうした現象の多く生じる社会と、そうでない社会とがあるのと同じように、同じ個人についても、欲求不満の強い時と弱い時では、その人の偏見や差別的行動に差異が生ずるし、また偏見の強弱や有無にも、当然、個人差がある。(以上)つづく

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偏見の構造―日本人の人種観②

2020年03月17日 | 現代の病理
『偏見の構造―日本人の人種観』 (NHKブックス 55・1967/1・我妻 洋著, 米山 俊直著)のつづきです。

 憎しみの転位と投射

 昔、ブラジルの奥地に、山を隔てて二つの部族が住んでいた。実際にあったブラジルの部族の話である。この部族は、一年に一度、戦争をするのが、長い間の慣習になっていた。決められた日、戦士たちは山の両裾から登り、山上で華々しい戦いをくりひろげた。といっても、武器はたかだか鎗や棍棒である。大した殺傷力はない。双方とも、数人が死に、十数人が負傷したところで、戦いをきりあげ、山を降りる。それから一年、つぎの戦いの日まで、二つの部族は、お互いを烈しく憎みあって暮す。ー 誰かの病気がなおらない。狩りにでても獲物がない。山の向うの奴らが、悪いマジナイをしているにちがいない。よおし奴等め、来年の戦いには、思い知らせてやる。あの、ウスギタナイ、卑劣な、けだものたちめ ー、そのうちに、つぎの年の戦いの日が、めぐってくる。戦士たちは、山の両裾から登り、山上で戦い、負傷者をかついでひき上げる。そしてまた、一年の憎み合いが続く。
 そこへ、ある時、ポルトガル人が来て、二つの部族は鉄砲を手に入れた。彼らは、早速、この新兵器を次ぎの戦いに使用した。たとい、先込めの火縄銃でも、棍棒や鎗とは比べものにならぬほど、殺傷力が強かった。双方ともに、未曽有の被害がでた。つぎの年は更にひどかった。部族民たちは被害の大きすぎるのに驚き、恐れ、長年続いてきた戦争を、中止してしまった。すると、思いがけぬことがおきた。それまで、かたく団結して暮していた夫々の部族の内部に喧嘩、口論が生じ、傷害沙汰がおこり、遂には一方の部族の長が殺される始末となり、部族が、二つなから、解体してしまったのである。
 ブラジル奥地の二つの部族のこの物語は、私たちに何を教えるか。

 ブラジルの二つの部族の一年一度の戦争と、一年間を通じての互いの憎み合いとは、攻撃衝動の「転位」の、見事な事例である。それは、部族内部に鬱積する敵意や憎しみや怒りを、すべて吸いあげ、山の向うの仇敵に向けて放出することによって、部族民のかたい団結と協力とを可能にする働きをしていた。だからこそ、鉄砲の殺傷力の強さに驚いた彼らが、戦争をやめてしまった時、それまで外に向けて放出されていた敵意や怒りや憎しみは、吐け口をふさがれ、あたかも、安全弁をふさがれたボイラーの圧力が高まり、タンクの各所から蒸気がふきだすように、部族内部に溢れかえったのである。(以上)つづく

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