市の図書館が休館のため、自宅の書庫にある本を読んでいます。以前(2019.9.6)このブログで、『語源500ー面白すぎる謎解き日本語』の掲載されている「おかあさん」の語源を紹介しました。(以下転載)
母親を意味する「おかあさん」という言葉は、意外に新しい言葉で、一般には明治時代の終わりに広まったものだ。
そもそも中世には、上級武士の奥方が住んでいる館のことを「北の方」と呼んでいた。奥方の部屋が、屋敷のなかの北でいたのだが、やが
て「北の方」の「方」だけをとって、奥方のことを「おかたさま」と呼ぶようになった。
それがしだいに変化し、「かか」「かかさん」「おっかさん」などの言葉が生まれ、明治時代に入って「おかあさん」となった。
そして、明治の終わりになって、国定教科書に「おかあさん」が使用されたことによって、急速に全国に広まったのである。(以上)
「奥さま」の語源は? 『近江商人ものしり帳』(NPO法人三方よし研究所刊)に次のようにあります。
「奥さん」、「奥様」と呼ぶようになったのは江戸時代のことであり、一般に普及したのは明治以降のことです。「奥さん」、あるいは「奥様」の語源は、江戸時代の将軍、大名、旗本などの武家屋敷で主人のくつろぐ奥の部屋の意味であり、公務用の部屋が「表」であるのに対して、「奥」は主人や夫人、奥女中が住み、主人以外の男性立ち入り禁止の場所でした。このことから、武士の多かった江戸では、武家の妻だけを「奥様」と呼び、庶民の街・大阪などでは、豪商や医者の家でも「奥さん」、または[奥様]と呼ぶようになったとするのが通説となっています。
滋賀県内に残る豪商の旧宅には、屋号を染め抜いた大きな暖簾が店の奥にかけられています。暖簾は商売のシンボルであると同時に、商売と奥向(家庭生活)とをはっきりと区分する境界でもありました。近江商人の妻といえども、店のこと、商売については、直接的には口出しせず、支配人や番頭が取り仕切っていましたが、奉公人の教育や躾、家としての財産管理は妻の役割でした。そして、出店からの金銭や商品ストックは、奥にある蔵に管理され、これらを取り仕切ったのも妻でした。「奥さん」という言葉は、このような近江商人の商業形態である「奥わたし」から生まれた呼び名ともいわれているのです。 封建社会では、女性の立場は低くみられる傾向にありますが、近江商人の間では、「女性を商売に介入させるな」という店則はみられません。商売にかけては主人が最高権威者でしたが、その妻は奉公人の採用やその教育、財産管理面など、暖簾から奥の一切を切り盛りする大きな責務を負っており、主人のよきパートナーとして内助の功を発揮していたのです。(以上)
母親を意味する「おかあさん」という言葉は、意外に新しい言葉で、一般には明治時代の終わりに広まったものだ。
そもそも中世には、上級武士の奥方が住んでいる館のことを「北の方」と呼んでいた。奥方の部屋が、屋敷のなかの北でいたのだが、やが
て「北の方」の「方」だけをとって、奥方のことを「おかたさま」と呼ぶようになった。
それがしだいに変化し、「かか」「かかさん」「おっかさん」などの言葉が生まれ、明治時代に入って「おかあさん」となった。
そして、明治の終わりになって、国定教科書に「おかあさん」が使用されたことによって、急速に全国に広まったのである。(以上)
「奥さま」の語源は? 『近江商人ものしり帳』(NPO法人三方よし研究所刊)に次のようにあります。
「奥さん」、「奥様」と呼ぶようになったのは江戸時代のことであり、一般に普及したのは明治以降のことです。「奥さん」、あるいは「奥様」の語源は、江戸時代の将軍、大名、旗本などの武家屋敷で主人のくつろぐ奥の部屋の意味であり、公務用の部屋が「表」であるのに対して、「奥」は主人や夫人、奥女中が住み、主人以外の男性立ち入り禁止の場所でした。このことから、武士の多かった江戸では、武家の妻だけを「奥様」と呼び、庶民の街・大阪などでは、豪商や医者の家でも「奥さん」、または[奥様]と呼ぶようになったとするのが通説となっています。
滋賀県内に残る豪商の旧宅には、屋号を染め抜いた大きな暖簾が店の奥にかけられています。暖簾は商売のシンボルであると同時に、商売と奥向(家庭生活)とをはっきりと区分する境界でもありました。近江商人の妻といえども、店のこと、商売については、直接的には口出しせず、支配人や番頭が取り仕切っていましたが、奉公人の教育や躾、家としての財産管理は妻の役割でした。そして、出店からの金銭や商品ストックは、奥にある蔵に管理され、これらを取り仕切ったのも妻でした。「奥さん」という言葉は、このような近江商人の商業形態である「奥わたし」から生まれた呼び名ともいわれているのです。 封建社会では、女性の立場は低くみられる傾向にありますが、近江商人の間では、「女性を商売に介入させるな」という店則はみられません。商売にかけては主人が最高権威者でしたが、その妻は奉公人の採用やその教育、財産管理面など、暖簾から奥の一切を切り盛りする大きな責務を負っており、主人のよきパートナーとして内助の功を発揮していたのです。(以上)