仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

偏見の構造―日本人の人種観

2020年03月16日 | 現代の病理
図書館が休みなので、書庫の本を取り出して読んでします。『偏見の構造―日本人の人種観』 (NHKブックス 55・1967/1・我妻 洋著, 米山 俊直著)は名著です。手元のある本は、1993年2月第37刷とあります。偏見や差別がどう生まれるのか、興味深い記述が満載です。4回に分けて紹介します。


信じられない感情

  アメリカ南部の白人の、黒人蔑視と差別とに、右にのべたような「劣等感から逃れるために誰かを軽蔑していることの必要性」という心理が、しばしば重要な役割を果していることは、つぎの事例にも、明らかに認められる。アメリカの一流雑誌『ルック』の記者で、南部出身の白人、ジョーシ・レオナードは、黒人差別の感情の非合理性についてつぎのように述べている。

「……われわれ南部の白人にとって、その召使である黒人たちを“理解”することは、極めて容易であった。黒人が、われわれの奴隷または召使であるかぎり、つまり黒人が、人間以下の存在であるかぎり、われわれ白人は、彼らに直面できるし、何の問題も生じない。しかし、黒人をわれわれ白人と同じ人間として扱かわねばならないとなると、話は全く違ってくる。それは、われわれにとってとても耐えられることではない。……私が若い頃、北部に移って黒人たちと対等の立場に立ってつきあいを始めた頃、私は自分が、感情的にも、知的にも、黒人に対する偏見を払拭していたつもりだった。しかし……黒人と握手をするたびに、私は自分の手を洗いたいという、甚だ不合理な、しかし、強烈な衝動に駆られたのであった。私はあわて、困惑し、自らを恥じた。しかし、黒人と握手をした自分の手がよごれているという感情を、どうしても禁じえなかった。これは実に信じられない、おかしな感情であった。というのは、私は生まれおちた瞬間から、黒人召使の黒い腕に抱かれ、黒い手によって体を洗われ、黒い乳房から乳をもらい、黒い手の作る食事をたべて育ったのであり、彼らの黒い肌がきたないと感じたことは、ただのいっぺんたりともなかったからである。」

黒人が、白人とは別個の、人間以下の存在である間は、つまり、白人の優位性に何の疑いもない間は、白人は、黒人をわざわざ見下す必要さえなかったし、黒人は「汚ない」存在でもなかった。しかし、いったん、黒人が、白人と対等の人間だということになると、南部の人間の中には、これを軽蔑し、見下し、押し下げ、遠ざけ、それによって、自己の優位性を確認しようとする衝動が動いた。そして、黒人の肌を「汚い」と感じた。黒人が初めから人間扱いをうけていなかった時には生まれなかった黒人への「差別感情」が、この時初めて生じたともいえるであろう。(以上)

エゴというものは常に自分の優位性の中に安心を求めるようです。偏見や差別は、偏見や差別が生じる根源が洞察されなかればならない。学ぶことが多い本です。(つづく)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓮如上人と朝倉敏景

2020年03月15日 | 浄土真宗とは?
2019.12.16の当ブログに
室町時代、吉崎を支配していた武将朝倉 孝景(あさくら たかかげ・敏景→教景→孝景の順で改名)
は、蓮如上人からご教導を受けたあと、十七箇条の家訓を制定したという伝承があると記しました。

小説『蓮如―信仰で時代を動かした男』(二宮隆雄著)には、朝倉孝景にあって、「吉崎への建立を許された」とだけ記述。『蓮如―本願寺王国を築いた巨人』(大谷晃一ちょ)には記述なし。『小説蓮如』(百瀬明治著)、この本には、朝倉孝景と面会する場面の記述など、数ページにわたって記述ありと紹介しました。

「朝倉孝景17ヶ条」に、
「(合戦の時、)吉日を選び、方角を考て時日を移事甚 口惜候。」とあり、この条文が、朝倉孝景が、蓮如上人から浄土真宗を学び、迷信を排除する行動を得たという伝承です。

『御文章講話』(杉紫朗)を読んでいたら、『御文章』一帖目第九通「物忌の章」の由来、どうしてこの御文章を書くにいたったかについて4つ上げておられ、その中の2説に朝倉敏景が絡んでいます。


1.朝倉敏景の臣下へ与えられたものであると慧然の『御文略解』、香月院『講義』にあり。

2.朝倉敏景が9月9日重陽(*菊の節句)の祝儀に参坊したついでに、真宗に不浄の火をもって仏事をおこなっても忌まないようであるが、いかがであるかと質問したのに対して、一宗の物忌みに対す見解をのべられ、それを御文にしたあたえられたものであると『来意抄』にある。

物忌み章(抜粋)
仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物さのみいむべからずと、あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。 まづ『涅槃経』にのたまはく、「如来法中無有選択吉日良辰」といへり。この文のこころは、「如来の法のなかに吉日良辰をえらぶことなし」となり。(以上)

吉崎を支配する朝倉敏景は、蓮如上人から教示を受けたことは本当のようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一休と蓮如

2020年03月14日 | 浄土真宗とは?
図書館が休みなので書庫の本をつまみ読みしています。『一休―逸話でつづる生涯 』(安藤 英男著)は、280頁、逸話で一休さんの生涯を綴っている本です。

その中に「一休と蓮如」の章があります。以下そこからの転載です。

一休は、他宗に対して寛容であった。一休が撰した『狂雲集』には、「衣を更えて浄土宗に入る」の字が見え、『自戒集』には、「法華宗純」の文字が見える。一休の道歌にも、
 成仏は 異国 本朝もろともに
 宗にはよらず 心にぞよる
とある。
だから一休は、他宗の人たちとも気軽に交際して、わだかまりがなかった。一休が六十四歳の時、二十二も若い本願寺の蓮如上人(名は兼寿)に会った。蓮如の性格も生きかたも、一休とはまるで違っていたが、彼が話せる男であることを知って、一休はうれしくなった。
 一休が六十八歳の寛正二年(一四六一)、この年は親鸞聖人の二百年遠忌で、蓮如はこの教祖のため盛大な法会を営み、一休をも招待した。一休は喜んで大谷本廟へ詣で、蓮如に請うて親鸞聖人の絵像をもらい受けた。この画像は当時一流の画家・芝法眼慶舜に描かせたものであった。一休は、蓮如の勧めで、この画像に賛をつけた。それは「末世相応のこゝろを」と題する、次のような歌である。
   襟巻の あたたかそうな 黒坊主
      こいつの法は 天下一なり
 これは、親鸞にかこつけて、蓮如をからかっているが、悪意はない。蓮如は、一休のような貧寒なのと違い、いわば実業家で、暖かそうだ。しかし、紫衣など望まず、黒衣主義で押し通した一休とは、通じ合うところがある。

ある時、一休と蓮如が話をしていると、一人の男が馬の絵を持って来て、賛をもとめた。
 一休が、いきなり、「馬じゃげな」と書くと、蓮如は、「そうじゃげな」とつけて、二人は大笑いした。

また、ある春の一日、一休が蓮如を訪ねると、おり悪しく不在だった。一休は勝手に上がりこみ、待っている間、本堂に入って手ごろの仏像を一つ持ち出し、これを枕にして昼寝してしまった。やがて蓮如が帰って来て、「これこれ、わしの商売道具を台なしにしたな」と言い、二人で腹をかかえて大笑いした。二人とも偶像崇拝の気など全くなかった。

また、ある時、一休が蓮如を訪ねて、自分が書いている「山姥」(やまんば)という謡曲の原稿を見せた。それは、「……邪正一如と見る時は、色即是空そのままに、仏法あれば世法あり、煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生あり、衆生あれば山姥もあり。柳は緑、花は紅」と、そこまで書いてあった。
「この下がつけられるか」
 と、一休が言うと、「つけられなくて」と蓮如は筆をとって、「―のいろいろ」 と書いた。一休は、「こいつ、こいつ、ばかじやない」と言い、次の句を書きついだ。
 「さて人間(じんかん)に遊ぶこと……」二人は、心から愉快になった。
 一休は死ぬ時、蓮如に頼んで、浄土念仏による引導を渡してもらいたいと遺言したくらいで、蓮如とはよほどウマがあったようである。(以上)

実際に、この年、一休は禅宗から浄土真宗に改宗と宣言しています。宣言と言っても、宗派にこだわりのない人なので、その程度のことです。

寛正二年六月十六日、大燈国師の頂相(肖像画)を本寺へかへして念仏宗となる。
(一休『自戒集』)名も「純阿弥」に変えたとあります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問いを持つことができる

2020年03月13日 | 日記
『「言葉」が暴走する時代の処世術』 (集英社新書・山極寿一・ 太田光 著)は、お二人の対談本です。


言葉の役割は、言葉にまつわることなど多岐にわたる対談本です。山極寿一京大総長の、物事を考える視点は興味深い。その中で、特に興味深く思われたのは下記のお話です。以下転載します。
 
山極 ゴリラと人間の決定的な違いは、問いを立てることです。それこそ言葉を持つ前から、人間は問いを立てていたはずで、問いを立てる力は想像力につながっている。自分がこれまで見てきた世界を頭の中でいくつも組み合わせることで、人間は問いを立てられるようになった。記憶の中にあるバーチャルな要素を、目の前の現実に当てはめて、考えるようになったんだね。おそらく最初に問いを立てたのは、食物の分配の場面だったと思うんですよ。

山極 そう。猿は決して食物を分け合わない。当たり前の話で、自分か食べているものを別の猿に取られたら嫌なわけでしょう。だから猿が食事をするときは、群れの仲間がばらばらに散らばって食べるわけですよ。猿の食べ物は熱帯雨林に豊富にあるから、それで何も問題は起こらない。むしろ食べるときはお互い邪魔にならないよう分散しましょうという話です。しかも、木の上では体重の重いものが不利になるから、食物を獲得する上で体力的な強い弱いはあまり影響しない。
太田 ところが人間は、猿とは違うわけですね。
山極 そうです。人間は熱帯雨林を離れて地上で生活するようになった。すると食べ物が一気に少なくなり、長い距離を歩いて食物を探し、みんなで分配しなければならない状況に陥った。しかも単純に分配するのではなく、遠くから食べ物を運んできた上で分けるんです。食べ物を取ってきて、仲間と分け合って一緒に食べる。これが類人猿と人間の決定的な違いで、類人猿は食べ物がある場所で食べる。ところが人間は食べ物を運んだ。直立二足歩行するようになり、手が自由になって食べ物を運べるようになったのです 想像力が人を進化させた。
太田 一緒に食べることで仲間意識も芽生えたわけですね。
山極 食料を待っている人間は、その食べ物がどこでとられて、どういう状態になっているかわからないから、仲間を信じるしかないし、目に見えない仲間の姿を想像するしかない。食べ物の量はかぎられているわけだから、どうやって分けるんだとか、誰がたくさん取るんだとか、いろいろな思惑が走るわけです。仲間内での思惑をめぐっては各自がそれぞれに想像力を働かせて、最終的には食べ物をめぐる力関係のようなものが成立する。
 
 人間は不在を埋め合わせるコミュニケーションの方法を持っているんです。しかも、物に特定の意味を象徴させて、それを理解することもできる。例えば父親が出張に出かけて長い間留守にしていても、家には父親の服や靴などの持ち物が残っているし、夕食の場では父親の席があるじゃないですか。だから、その場にいなくても父の存在を認識できる。
これが人間ならではの想像力なんですよ。
 食べ物の話に戻るならそれをとりに出かけた仲間の存在は当然意識しているし、きっと食べ物を持って戻ってきてくれるはずだという信頼感も抱いている。ゴリラやチンパンジーの場合、仲間が目の前からいなくなったら死んだものとして仲間としての扉を閉ざしてしまうのに対して、人間は扉をずっと開けておくことができる。これはかなりすごい能力だと思うんですよ。(以上)

何を問ふか以前に、問いを持つこと自体に人間性があるという事でしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取り返しのつかないこと

2020年03月12日 | セレモニー
「取り返しのつかないこと」といっても、大概は取り返しがつきます。でも本当に取り返しのつかないことをやった場合は、青ざめるしかありません。

2018.1.19のこのブログに次のようにあります。

2018.1.10 11:27産経の記事です。

島根県出雲市の葬祭場「さがみ典礼出雲葬斎センター」で、2人の遺体が取り違えられ、1人は火葬されていたことが10日、分かった。
 同センターを運営する「アルファクラブ武蔵野」(さいたま市)の出雲支社によると7日、遺体を霊安室から運び出す際に取り違えが起こった。1遺体を遺族の元で火葬にした後、残る遺体を別の遺族と対面させた際に別人と判明した。
 同社が運営する葬祭場では遺体に名札を付けているが、同センターではこの作業を怠っていた。
 同社の渡辺功支社長は「事実を真剣に受け止め、改善を推進してまいります」とコメントを出した。
 同社の運営する埼玉県所沢市の葬儀場でも平成26年12月、遺体を取り違えるミスが起きている。(以上)

同様な事件が、またあったようです。以下は下記からの転載です。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200211-00010000-flash-peo

 あってはならない事態が起きたのは、1月14日。千葉県の大手葬儀社「R社」の葬祭場で、2体の遺体を取り違え、火葬してしまう事故が発生した。R社の関係者が明かす。

「同時期に亡くなられたお2人のうち、孤独死したAさんには火葬のみで葬儀をおこなわない『直葬』が、Bさんには葬儀を1日かけておこなう『1日葬』が予定されていました。
 ところが当日、Aさんを荼毘に付すとき、職員が手違いで、Bさんを霊安室から運び出し、山武郡市広域斎場で火葬してしまったのです。
 その後、Bさんの葬儀を準備するなかで、霊安室に安置されているはずのBさんの遺体がなく、すでに火葬されているはずのAさんの遺体が残されていたことで、事故が発覚したといいます」
 事情があったのか、当日、Aさんの遺族が、顔を確認しなかった不幸も重なった。
「Aさんは糖尿病により、生前、片足を切断していました。お骨上げの際、Aさんのご遺族から『なぜ足のお骨が2本ぶんあるんだ』と、声が上がったそうですが、まさか“取り違え”があったとは思わず、Aさんのお骨と信じて、Bさんのお骨を拾ったそうです」(同前)

 なぜ事故が起きてしまったのか。R社の元従業員が語る。
「取り違え事故は、いずれかが直葬か、身元不明であるケースで起こりやすい。だが、R社の棺の蓋には、故人の顔が見える窓があり、名札もつけられていたはずで、普通なら絶対に間違わない。
 R社は利益を重視して、現場は常に人手不足だった。従業員に、肉体的にも精神的にも負担がかかるなかで、このような確認ミスが起きたのでしょう」
 事故から約1カ月がたち、Aさんの遺体はあらためて火葬されたという。だが、最後のお別れができなかったBさん遺族の悔恨は、計り知れない。
 R社に、事故の原因や補償問題について問い合わせると、こう返答を寄せた。
「両ご喪家様に多大なご迷惑をおかけしたことは事実でありますが、本件に関わる情報開示を、いっさい控えさせていただきます」
 このままでは故人も浮かばれまい――。
(週刊FLASH 2020年2月25日号)(以上)

担当者は青ざめたことでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする