仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

宇宙にある恐怖

2010年07月26日 | 浄土真宗とは?
読売新聞(22.7.25)に、今年6月まで約半年間滞在した宇宙飛行士の野口聡一さん(45)の“宇宙から見える「恐怖」を語る”のタイトルに興味を思えた。“宇宙から見える恐怖って何だろう”と読んだら、それは地球ことだった。以下記事より転載。

 
 アマゾンの森林破壊や中央アジアーアラル海の縮小、油田事故による原油流出などの様子も、宇宙から見るとよく分かる。人間の開発によって、地球の姿が目に見える形で変わっていくことには恐ろしさを覚えた。宇宙飛行士が、その様子を地上の皆さんにきちんと伝えることが、警鐘になる。(以上)

宇宙での恐怖というから、てっきり宇宙のことだと思ったら、地球のことだった。なにかお説教になりそうな話です。立ち位置を変えることによって自分を知るということがあります。

今にも壊れそうな宇宙に浮かぶ地球で、人間がわがもの顔に自由勝手にふるまっている。その様子を地球の外から見たのだから、さぞ人間の振る舞いに恐怖を感じたことだろう。

阿弥陀さまのご覧になられたこの私の危うさを、中国の善導大師は、「水にに溺れたる人のごときは、すみやかにすべからく偏(ひとえ)に救うべし。」と急げ、急げ、急げと三度重ねて、闇に沈むわたしの存在はただならぬ状況にあることを示されておられます。

地球の恐怖よりも、より一層のご心配を阿弥陀さまはされているようです。
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葬儀委員長

2010年07月25日 | セレモニー
3.4年振りに東京の下町の方の葬儀のご縁を頂いた。15年くらい前までは東京の下町の土地っ子葬は、町会長などの人が葬儀委員長に立ち、葬儀社は、地域に必ず1つはある町の葬儀社、受け付けなど地域ぐるみで行われた。

今回も葬儀も知り合いからの手引きであったが、葬儀委員長を立て、親せきが皆、一様に住職である私に挨拶に来る。葬儀社いわく、この辺(葛飾区亀有)でも、葬儀委員長を立てるのは珍しくなったとのこと。以前は、つながりの中で葬儀社やお寺さんも用意され、葬儀が地域社会の行事と言った感覚で営まれいた。

昭和61年から東京文京区にある仏教情報センターの電話相談員を6.7年させていただいた。電話相談の内容はさまざまであったが、法事等のお布施の額についての問い合わせが多かった。地域により寺院により異なり、ましてお布施なので幾らですとは言えない。

イオンのお布施の額の提示ではないが、大体の線はお伝えしなければならない。葬儀に、月給の手取り程度、法事は月給の10分の一程度と申し合わせたことがある。20年前の話です。人にとって月給も年金も金額が異なるので、月給の少ない人は志の金額も少額となる。まあ1つの考え方だあろう。

こうしが相談が電話相談に持ち込まれるようになった背景に、やはり地域社会のコミニテイーの脆弱があったのだろう。

僧侶紹介所が繁昌しているが、それほど需要があるということであり、地域社会の人のつながりの解体、新しい地域社会のあり方が模索されている時代なのだろう。
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閉ざしていないと生きていけない社会

2010年07月24日 | 現代の病理
深夜便「明日へのことば」は、「世界に発信!なら国際映画祭」と題して映画作家の河瀬直美さんが登場されていた。映画監督としての現代や風景を見る視座に新鮮さを感じた。奈良での国際映画祭のたち上げ、8月下旬開催とのこと。私も参加してみたいと思った。

奈良の自然、素朴な人間性を紹介された中に「都会では、閉ざしていないと生きていけないほど人が多く、情報が多い」と語っておられた。“人が多くなると孤独が生れる”社会心理学の先生から聞いたことがあるが、先のことばを聴いて都会の無関心は自己防衛でもあるのだかなーと思った。

逆に“閉ざしていないと生きていけない”社会であればあるほど、密なる関係、自分でコントロールできる関係を欲しがる。これは仮説ですが、この自分でコントロールできないと気が休まらないというところに、子どもの虐待の原因もあるのかも知れない。

現在、世界中にストリートチルドレンは1億人以上いるといわれる。片や日本では、幼児虐待が多発している。前者は“ない”ことが不幸の原因であり、後者は“ある”ことが不幸の原因を作っている。ともにその時代を総括する文化のほころびが不幸を生んでいる。どのような文化を日本に根付かせたいのか。もっと仏教者が発信しなければならない問題だ。
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ドリアンの思いで

2010年07月23日 | 日記
東京大学付属小石川植物園(東京都文京区)で19年ぶりに開花した希少植物「ショクダイオオコンニャク」が話題となっている。ラジオで聴いていると開花したとき、その強い悪臭が70、クサヤと同じ、そして満開に近くなると臭いを測る計器が90、ドリアンと同じ臭さですと報道していた。

ラジオを聴きながら、ドリアンも臭かったなーと思いだしているところだったので、ドリアン臭いが懐かしく蘇ってきた。

築地本願寺に勤めている時、お世話になった輪番が有馬清雄という豪傑の師であった。山口の厚狭出身で、当時外務大臣であった安陪信太郎さんが、同じ郷里で本来浄土宗の檀家であったが、有馬輪番とのご縁で浄土真宗の門徒ということで、聞真会のお世話人をされておられた。

そして外務大臣であるから世界の要人の訪問がある。タイの方は、このドリアンを土産に持参される。最初はその匂いに腐っていると思ったそうだが、そのうち有馬輪番がドリアンが好きだとなり、定期的に別院にドリアンが届いた。
戦争で東南アジアに赴いていたおり、当地では果物の王様ドリアン、果物の女王マンゴスチンと讃えられて、良く口にしたとのことであった。

バターのような濃厚な果肉を口に入れると、臭いは気にならないフルーツでした。当時、有馬輪番の秘書をしていたので、赤坂で安陪ご夫妻に食事をご馳走になったこともあった。
懐かしい思い出が、臭いと共に思い出された。
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当たり前の中にある力

2010年07月22日 | 日記
猛暑、こう暑くなると早朝の涼しさが貴重です。早朝のウオーキング、今日は汗ふきタオルを忘れたので、ショート(一時間弱)で帰ってきました。もったいないことをしたと冷房の部屋の中で回想しています。

毎日、こうして思うままに書いていると、書くことは苦にならないが、毎日書くという継続の重さを感じることがある。重圧とまではいかないが、書こうとすることが思いつかないと、継続という軽いプレッシャーを感じる。

その軽い継続というプレシャーの中で、ふと念仏が私の口に継続されているという事柄を思う。毎日、飽きもせず私の口に出てくださる念仏が、当たり前であれば当たり前であるほど、念仏の背後のある如来のご苦労は深いのだと思う。
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