仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

自尊感情③

2010年07月11日 | 現代の病理
改めて情報化時代の現代を思った。というのは過般も、私流の人生相談を回答したら、ご本人からコメントを頂いた。また今日も下記のコメントを頂いた。

・コメントが届いた記事
自尊感情

・コメントが届いた記事のURL
http://blog.goo.ne.jp/nishihara2480/e/b7a38fc00c6660a76b442c77b76b008a

・コメントを書いた人
せいこ

・タイトル
ラジオ深夜便

・コメント
ラジオ深夜便でお話をさせていただいた助産師の鈴木です。お聴きいただきましてありがとうございました。そしてブログにもご紹介していただきましてありがとうございました。放送の反響は予想以上に大きく、多方面からのご連絡をいただいております。改めて深夜便のリスナーの方の幅広さにも驚いています。
私は長年命の現場に身を置く職業人で、当日は殆ど何の準備もないまま〔デレクターの意向)収録に臨みました。従って後日HNKから送られてきたCDを聞き、大切なことを言い忘れてしまったり、十分に表現できなかったことも多く、悔いの残る内容となってしまいました。それでも、リスナーの寛容さに救われ、アンコール放送だけでなく、月刊ラジオ深夜便〔6月号)にまで登場することになってしまいました。
実はいろいろと教えていただきたことがありご連絡させていただきました。
その1 「滑らかさの中に得意げな感情が見え隠れしていたのが気になった」とのことですが、具体的にご指摘いただければありがたく存じます。人前に話をする機会もあり、十分に心つもりしなければならないことが有りましたら
お示しいただければありがたく存じます。

その2、自尊感情のところで、「赤ちゃんの時のことや親の願いを聞いて抱く自尊感情は、尊いものですが、その精神性のクオリテイーは一過性で淡白です。」についてもう少し詳しくお教えいただけないでしょうか?実は放送がご縁で仏教関係者とのお付き合いがあるのです。自分自身さらに見識を深め、「いのち」を見つめる助産師としての視点を見つめ直す事があるとしたら・・・など考えることもあります。
ご多忙のことと思いますが、ご教授いただければありがたく存じます。今月は京都に出向きます。浄土真宗にもご縁が有りそうです。(以上)

私の思いつきのような不用意な言葉で傷つけてしまったことがあるとすればお許しください。

「得意げな感情」は言い過ぎかもしれません。「滑らかさの中に得意げな感情が見え隠れしていたのが気になった」ことですが、いまフト思ったことですが、おそらく対談を録音したのは日中でしょう。その日中に録音したものを、未明の静けさの中で聞いたので、そうした印象を受けたのかもしれません。受けた印象ですが、滑らか過ぎてとは講演慣れしておられるようすで、いつも話していることを話されている印象を持ちました。だから話の内容が、テンポよく話題として紹介され、その話題として取れ上げられた人の気づきがどれだけ深く重たいかといった質の深さが、話題として流されている感じを受けました。

これは今回のご講演とは直接関係ないことかもしれませんが、深いいのちの問題を語る時は、早口で語ってしまうと、内容が話題として流され、その話の内容の重さと、重たい内容を早口で語ってしまったことのギャップが、語った人の軽率さとして感じ取られてしまう場合があるのだと思います。


もっとゆっくりと味わい深く語られた方が、お話されたい内容が伝わるのではないかと存じます。それは先にも申した通り、未明の静けさの中で聞いたからかもしれません。

2点目の「赤ちゃんの時のことや親の願いを聞いて抱く自尊感情は、尊いものですが、その精神性のクオリテイーは一過性で淡白です。」

赤ちゃんの時に植えつけられるH・エリクソンがいう基本的信頼は、人間にとって不可欠なもので重要な発達課題です。しかしこの基本的信頼という自尊感情だけで、私のすべてが肯定されるかといえば否です。怒りの中にある私、憎しみの中にある私、あるいは私の生と死を託するほどの普遍性はありません。といって“親の願いを聞いて抱く自尊感情”を貶めるものではありません。
やはり自分の感情や心のありようを超えた神や仏といった自分を肯定してくれるものが不可欠です。先にいう一過性とは心の状態を拠り所とした支えは尊いものであっても普遍ではないということです。また不変ではないという意味で、水の泡のように淡白なものだと思います。


コメント
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