仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

迷惑を引き受けていける社会を

2010年07月12日 | 現代の病理
昨日の新聞に、軽食喫茶の店で「ベビーカーはテラスへ」へと誘導されて驚いたといった記事が出ていた。せっかくお客さんが静かな雰囲気を楽しんでいるのに、幼児が泣き出しては迷惑だからといった内容でした。

一昨日の読売(22.7.10)の読書投書欄に「息子が近所の世話にありがたみを実感」という主婦 村田 昌子(38)(富山市)さんの投書が出ていた。

 先日、小学1年生の息子の下校時間を勘違いしてしまい、帰宅時間に家にいてあげることができなかった。普段から泣き虫の息子は、泣きながら向かいの家に行ってしまったらしい。だが、私しが家に帰ってきた時、息子は何事もなかったかのように、向かいの家の人にもらったアイスクリームを食べながら待っていた。遊び回ってぃたのか、全身汗びっしょりになっている息子を見てひと安心した。
 私はこれまで、近所の人になるべく迷惑をかけまいという一心で過ごしてきたが、今回の出来事で近所の人に支えられて暮らしていることを実感できた。今後は、地域社会にも積極的にかかわりながら、息子とともに成長していきたいと思う。(以上)

その両者を読んで改めて「現代社会は自他共に迷惑をかける関係を嫌っているんだ」と思った。その時、過般、元大谷大学の学長であった小川一乗先生の講演を、会報「ビハーラ」にすべくダイジェスト版に編集した時にあった先生の言葉を思い出した。

講演録からの抜粋です。

迷惑を受けていける広い世界がある
『おくりびと』がアカデミー賞をもらいました。その後のある番組で司会者が、『おくりびと』はアカデミー賞を貰ったけれども、皆さん方は「死」という問題をどのように考えていますかと質問した。そこに並んでいた人は偉い方々です、日本や世界をリードしているインテリの集まりです。それなのに、ある方は死なんて考えたことがないと言う。そういう人が政治を論じ、社会を論じ、経済を論じ、そして犯罪を論じているのです。びっくりしました。ある人は考えたって仕方ない、どうせ死ぬのだから。人に迷惑をかけずに死にたいと言う。これもびっくりしました。その方、迷惑を掛けずに死ねると思っているのですね。とんでもない、迷惑を掛けずに死ねるはずはない。山の中で自殺しても迷惑をかけます。何やっても迷惑を掛けずに死んでなんか行けません。私がその時の司会者だったら、あなたは迷惑をかけないで生きているのですかと聞きたかった。その基本にあるのは、人に迷惑をかけるのは悪いことだという前提がある。ところが仏教を基本として育まれてきた私たちには、迷惑を掛けられることが喜びである、その迷惑を引き受けていける広い世界があるのです。(以上)

縁によってつながっているという感覚が希薄化した社会があるようです。
コメント
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