仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

わたしと”人間・親鸞”(1)作家 五木寛之を聴く

2010年07月27日 | 浄土真宗とは?
深夜便は、「わたしと”人間・親鸞”(1)作家 五木寛之(H22.6.13放送)」でした。いつも聴いているようで、大概の4時からの深夜便の再放送は、初めて聞く話なので、聴いていない方が多いのだなーと納得。

いつもながら言葉を商売として用いる人なので、言葉の使い方が芸術の域まで達していると思った。

他力について、私を含めた宗門人は自力を否定する傾向があるが、自力は他力によってあると、万有引力をたとえて語っていた。

「自立と言うけど、自分が立つことだって万有引力あって地球に重力によって引きつけられているから自ら立つことができるのです(意趣)」と言われていた。

また東京都知事の石原真太郎さんとの対談の様子を紹介されていた。


石原慎太郎氏は、意識的に“他力本願ではだめだ”という人で法華経の信者でもあります。

石原氏は吉川英治著の「宮本武蔵」の中の話を例に挙げ、武蔵が吉岡一門との決闘に向う途中、ちょうど神社があった。武蔵は神の加護を祈っていこうと思ったがやめた。神に勝利を祈るようでは負けたも同然だと翻意したのだという。そして武蔵は勝利した。要するに「他力」を捨てて「自力」に徹したことが良い結果をもたらしたということ。

それに対して五木氏は、「神や仏に助けを求めるような弱い心ではだめだ、決意したことこそ、他力の声によるのだ」(意趣)と返答したと紹介されていました。

五木さんの自力と他力を対立的に立てるのではなく、自力は他力によって成立するという解釈は、一般の人にはわかりやすいと思う。

しかし宗教すなわち、目覚めを核心において考えると、浄土真宗で説く他力観、“自力の存在を微塵も許さない”という領域に意識が拡張していかないと、その人の宗教にならない。なぜならば“自力の存在を微塵も許さない”ということこそ、愚の自覚であり、自己否定であり、自分の業からの解放であり、自分を無にして宇宙的な生命と一体になるという体験だからです。

それはそれとしてもっと自由に他力を楽しむ必要がある。そんなメッセージが対談を聴きながら聴こえてきました。
コメント
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