“へー、かくれんぼって、すごいんだー”。『マナーと作法の社会学』(東信堂)の中に、村上光朗(鹿児島国際大学)氏が、“「かくれんぼ」ができない子どもたち”について執筆されていました。
『子どものマナー図鑑3』に「キケンな遊びかたはしない」「人目につかない場所や人がいないところへはいりこまない」という項目があるとのこと。しかし子どもたちの遊び、なかでも伝統的な外遊びは、「キケン」で「人目につかない場所」を好んで選択することが多い。鬼の目から逃れる遊びである「かくれんぼ」もそうした条件を備えた遊び。危険をあらかじめ予防する大人側の視線やマナー的配慮が、遊びのダイナミズムを子どもから奪うことになる。
以下転載です。
杉本厚夫は、いまの子どもたちが「かくれんぼ」ができなくなってきているという。杉本はまず、「かくれんぼ」のもつ怖さを指摘する。
実は「かくれんぼ」という遊びは、怖い遊びのひとつにあげられる。それは、まず隠れるところが、こんなところには隠れないだろうと思うような危険な場所を選ぶからである。つまり、隠れる場所が危ないという意味で怖い。
もうひとつ怖いというのは、隠れていて恐る恐る出てきたら、もう「かくれんぼ」は終わっていて、みんな帰ってしまったという場合である。つまり、「かくれんぼ」で独りぼっちになってしまうことだ。
鬼は、わざとみんなが隠れていると思われる方向とは逆の方向に歩きだし、隠れている子どもを安心させておいて、急に振り返って見つけ出すという策を講じる。いわゆるフェイントと呼ばれる騙しである。もちろん、これはかくれんぼでは許されている行為であり、戦略である。[杉本]
ところが、危険な場所、仲間から離れた独りぼっちの孤独、仲間との真剣な騙し合いの世界、そうしたものがないまぜになっている「かくれんぼ」を、いまの子どもたちは嫌い、怖れ、例えば、「隠れていても、見つかるように、物音をたてたり、歌を歌ったり、鬼に向かって手を振ったりして、自分の居場所を知らせ」たり、「かくれんぼ」では「ちくる」という裏切り行為であるはずの「捕まった子が、鬼に友だちが隠れているところを密告する」ことまでしてしまう。また、鬼役の子が、自分ひとりがいじめられているようで嫌だと泣き出してしまう場合さえあるという。鬼はたったひとりで集団に立ち向かってゆかねばならないため、そこに集団いじめの構図を見て恐怖するのだという(杉本)。
大人側か推奨するお行儀の良いマナーにしたがえば、「かくれんぼ」という遊びはそもそもはじめから成立しようがないし、「かくれんぼ」を通して身体化することのできた「ひとり孤独に耐える」ことや、「『騙し、騙される』遊び」を根底部分で担保してくれる友だち同士の信頼の黙約(それは「かくれんぼ」特有のマナー性と考えることもできよう)を学習する機会を奪われてしまう。さらにいえば、当の子どもたち自身が、お行儀の良いマナーを自ら実践することで、かくれんぼを遊ぶための深い関わりを築くことが困難になってきている。
(以上)
私の子どものときは、「かくれんぼ」より「カンけり」がほとんどでしたが、遊びを通して身体的な学習を多くしたように思います。
『子どものマナー図鑑3』に「キケンな遊びかたはしない」「人目につかない場所や人がいないところへはいりこまない」という項目があるとのこと。しかし子どもたちの遊び、なかでも伝統的な外遊びは、「キケン」で「人目につかない場所」を好んで選択することが多い。鬼の目から逃れる遊びである「かくれんぼ」もそうした条件を備えた遊び。危険をあらかじめ予防する大人側の視線やマナー的配慮が、遊びのダイナミズムを子どもから奪うことになる。
以下転載です。
杉本厚夫は、いまの子どもたちが「かくれんぼ」ができなくなってきているという。杉本はまず、「かくれんぼ」のもつ怖さを指摘する。
実は「かくれんぼ」という遊びは、怖い遊びのひとつにあげられる。それは、まず隠れるところが、こんなところには隠れないだろうと思うような危険な場所を選ぶからである。つまり、隠れる場所が危ないという意味で怖い。
もうひとつ怖いというのは、隠れていて恐る恐る出てきたら、もう「かくれんぼ」は終わっていて、みんな帰ってしまったという場合である。つまり、「かくれんぼ」で独りぼっちになってしまうことだ。
鬼は、わざとみんなが隠れていると思われる方向とは逆の方向に歩きだし、隠れている子どもを安心させておいて、急に振り返って見つけ出すという策を講じる。いわゆるフェイントと呼ばれる騙しである。もちろん、これはかくれんぼでは許されている行為であり、戦略である。[杉本]
ところが、危険な場所、仲間から離れた独りぼっちの孤独、仲間との真剣な騙し合いの世界、そうしたものがないまぜになっている「かくれんぼ」を、いまの子どもたちは嫌い、怖れ、例えば、「隠れていても、見つかるように、物音をたてたり、歌を歌ったり、鬼に向かって手を振ったりして、自分の居場所を知らせ」たり、「かくれんぼ」では「ちくる」という裏切り行為であるはずの「捕まった子が、鬼に友だちが隠れているところを密告する」ことまでしてしまう。また、鬼役の子が、自分ひとりがいじめられているようで嫌だと泣き出してしまう場合さえあるという。鬼はたったひとりで集団に立ち向かってゆかねばならないため、そこに集団いじめの構図を見て恐怖するのだという(杉本)。
大人側か推奨するお行儀の良いマナーにしたがえば、「かくれんぼ」という遊びはそもそもはじめから成立しようがないし、「かくれんぼ」を通して身体化することのできた「ひとり孤独に耐える」ことや、「『騙し、騙される』遊び」を根底部分で担保してくれる友だち同士の信頼の黙約(それは「かくれんぼ」特有のマナー性と考えることもできよう)を学習する機会を奪われてしまう。さらにいえば、当の子どもたち自身が、お行儀の良いマナーを自ら実践することで、かくれんぼを遊ぶための深い関わりを築くことが困難になってきている。
(以上)
私の子どものときは、「かくれんぼ」より「カンけり」がほとんどでしたが、遊びを通して身体的な学習を多くしたように思います。