先だって、豊田の若いお母さんグループ・グリーンママン主催の憲法カフェに参加しました。若い弁護士さんのお話はわかりやすく、緊急事態条項のあやうさや、個々に至った歴史的経緯など、あれこればらばらだった知識をコンパクトにまとめてもらえたという印象をもちました。
しらないこともいくつかあって、びっくり。もっともおどろいたのは、公職選挙法が、大正末期に成立したままの法律であること。しかも、この法律、普通選挙法と抱き合わせにできた治安維持法と一緒に成立したのだそう。たとえば、イギリスなどでは許されている候補者の戸別訪問は、この大正時代にできた公職選挙法によって禁止されているのだそうです。選挙活動資金の少ない候補者を支援する人たちは、口コミで多くの人に伝えたいと思っても、それができない。なぜだろうとおもっていましたが、普選法と一緒に成立したと知って、納得できました。
「憲法とは為政者をしばるもの」という主張がなされる一方、現与党の憲法改正案では、「国民を縛るもの」という考えで作られていると聞きます。真反対の定義が、一般の法律の頂点に立つ憲法についてなされているのに、驚きます。では、憲法とはなんなのかしりたくて、こんな本を図書館で借りてきて、前書きだけ読みました。
「岩波講座 憲法1」難しい言葉がたくさんあって、細部までは理解できなかったけれど、とてもおもしろかった。ちょっと紹介します。
全6巻のうちの最初の講座で、「立憲主義の哲学的地平」という副題がついています。
冒頭から論者は、「憲法の存在理由と意義を、原点に立ち返って根本的に反省するのは悪いことではない」としながら、「戦後憲法は紙屑だといい放つ人々」にたいして、このように反論しています。
「占領が終了してから既に半世紀以上もの間、改正されずに存続している憲法を、いまだに「押し付け憲法」と糾弾する人たちは、何が押し付けられたのか、押し付けられた憲法とは一体いかなる統治の原理なのかを理解していない、あるいは理解する気などないようである」
「理解していれば、憲法改正権力も含む主権を国民に帰している現憲法を彼らに「押し付けて」いるのは、もはや「占領勢力」ではなくて、主権回復後半世紀にわたって憲法改正を阻んできた同胞国民、彼らがまさにその名において改憲を要求している「国民」の構成員たる多くの人々の意思ではないかと、少しは自問・自省する気になったであろう」
明瞭な指摘で、読んでいて気持ちいい。さらに読み進むと、こんな文言が。
「民主主義の優位を説く人々からの、民主的立法に対する立憲主義統制への批判に対して、立憲主義の擁護者はしばしば、「民主主義は民主主義によっては正当化できない」という反論をする。これは正当である。しかし、これに対しては「立憲主義は立憲主義によっては正当化できない」という同型の、やはり正当な反論が突き返されるだろう。さらに言えば、立憲主義は実定憲法によって正当化することもできない。実定憲法の特別な規範的地位の根拠が立憲主義に求められている以上、実定憲法が立憲主義に依拠していることを立憲主義の根拠にするのは、論証さるべきものを前提にして論証する「先決問題要求の虚偽」を犯すものである。したがって、立憲主義の擁護は立憲主義の意義と存在理由についての哲学的考察を必要とする。」
「立憲主義に対する上述のような懐疑・批判が、立憲主義の支柱をなす哲学的諸原理に向けられている以上、これは当然でもある。立憲主義の擁護は哲学的原理ではなく政治文化や歴史的実践に訴えてなさるべきであるとする立場もまた、哲学的正当化の限界についてのメタ哲学的主張を提示する哲学的省察である。立憲主義の哲学的正当化は不可能であるだけでなく、立憲主義の擁護にとって不必要だという主張自体が、きわめて論争的な哲学的主張であり、哲学的正当化を必要としている」
わかりづらくて何度も読んだのですが、この一節には強い印象を持ちました。
憲法はその国がどういう国であるかを示すもので、すべての法律の上に立ち、為政者の考えや指針は、その憲法のもとにおいてきめられるべきものとおもいます。でも、グローバル化が進み、多国籍企業がどんどん進出し、一方で難民が生まれている現在、国を超える思想がまたれているのではないか、だから、EUやTPPの構想ができたのではないかとおもえます。
この流れが続けば、いつか、「いまある国を国民の意志で解散して、たとえば国連とか、SF的にいうと世界政府とかをつくろう。そして細かいことは各地域にまかせよう」といった主張が大勢を占めるときが来るかもしれません。人々の多くがそれをのぞめば、そのようにするのが民主主義のわけだから、そういう事態が起きてもおかしくないはず。
でも、こういう事態にいたったときに、あくまでひとつの国の単位で物事を考えていると、どこまでも民主的であろうとする勢力とぶつかることになるのではなかろうかと、なんとなくおもっていました。その答えとなるのかどうかわかりませんが、立憲主義はだいじだけれど、とらわれていると読み間違えることもあるかもしれない、とおもわせる一節でした。
グローバル化と立憲主義についても、この講座では、一巻設けています。機会があったらまたまえがきだけ、読んでおきたいとおもいます。
しらないこともいくつかあって、びっくり。もっともおどろいたのは、公職選挙法が、大正末期に成立したままの法律であること。しかも、この法律、普通選挙法と抱き合わせにできた治安維持法と一緒に成立したのだそう。たとえば、イギリスなどでは許されている候補者の戸別訪問は、この大正時代にできた公職選挙法によって禁止されているのだそうです。選挙活動資金の少ない候補者を支援する人たちは、口コミで多くの人に伝えたいと思っても、それができない。なぜだろうとおもっていましたが、普選法と一緒に成立したと知って、納得できました。
「憲法とは為政者をしばるもの」という主張がなされる一方、現与党の憲法改正案では、「国民を縛るもの」という考えで作られていると聞きます。真反対の定義が、一般の法律の頂点に立つ憲法についてなされているのに、驚きます。では、憲法とはなんなのかしりたくて、こんな本を図書館で借りてきて、前書きだけ読みました。
「岩波講座 憲法1」難しい言葉がたくさんあって、細部までは理解できなかったけれど、とてもおもしろかった。ちょっと紹介します。
全6巻のうちの最初の講座で、「立憲主義の哲学的地平」という副題がついています。
冒頭から論者は、「憲法の存在理由と意義を、原点に立ち返って根本的に反省するのは悪いことではない」としながら、「戦後憲法は紙屑だといい放つ人々」にたいして、このように反論しています。
「占領が終了してから既に半世紀以上もの間、改正されずに存続している憲法を、いまだに「押し付け憲法」と糾弾する人たちは、何が押し付けられたのか、押し付けられた憲法とは一体いかなる統治の原理なのかを理解していない、あるいは理解する気などないようである」
「理解していれば、憲法改正権力も含む主権を国民に帰している現憲法を彼らに「押し付けて」いるのは、もはや「占領勢力」ではなくて、主権回復後半世紀にわたって憲法改正を阻んできた同胞国民、彼らがまさにその名において改憲を要求している「国民」の構成員たる多くの人々の意思ではないかと、少しは自問・自省する気になったであろう」
明瞭な指摘で、読んでいて気持ちいい。さらに読み進むと、こんな文言が。
「民主主義の優位を説く人々からの、民主的立法に対する立憲主義統制への批判に対して、立憲主義の擁護者はしばしば、「民主主義は民主主義によっては正当化できない」という反論をする。これは正当である。しかし、これに対しては「立憲主義は立憲主義によっては正当化できない」という同型の、やはり正当な反論が突き返されるだろう。さらに言えば、立憲主義は実定憲法によって正当化することもできない。実定憲法の特別な規範的地位の根拠が立憲主義に求められている以上、実定憲法が立憲主義に依拠していることを立憲主義の根拠にするのは、論証さるべきものを前提にして論証する「先決問題要求の虚偽」を犯すものである。したがって、立憲主義の擁護は立憲主義の意義と存在理由についての哲学的考察を必要とする。」
「立憲主義に対する上述のような懐疑・批判が、立憲主義の支柱をなす哲学的諸原理に向けられている以上、これは当然でもある。立憲主義の擁護は哲学的原理ではなく政治文化や歴史的実践に訴えてなさるべきであるとする立場もまた、哲学的正当化の限界についてのメタ哲学的主張を提示する哲学的省察である。立憲主義の哲学的正当化は不可能であるだけでなく、立憲主義の擁護にとって不必要だという主張自体が、きわめて論争的な哲学的主張であり、哲学的正当化を必要としている」
わかりづらくて何度も読んだのですが、この一節には強い印象を持ちました。
憲法はその国がどういう国であるかを示すもので、すべての法律の上に立ち、為政者の考えや指針は、その憲法のもとにおいてきめられるべきものとおもいます。でも、グローバル化が進み、多国籍企業がどんどん進出し、一方で難民が生まれている現在、国を超える思想がまたれているのではないか、だから、EUやTPPの構想ができたのではないかとおもえます。
この流れが続けば、いつか、「いまある国を国民の意志で解散して、たとえば国連とか、SF的にいうと世界政府とかをつくろう。そして細かいことは各地域にまかせよう」といった主張が大勢を占めるときが来るかもしれません。人々の多くがそれをのぞめば、そのようにするのが民主主義のわけだから、そういう事態が起きてもおかしくないはず。
でも、こういう事態にいたったときに、あくまでひとつの国の単位で物事を考えていると、どこまでも民主的であろうとする勢力とぶつかることになるのではなかろうかと、なんとなくおもっていました。その答えとなるのかどうかわかりませんが、立憲主義はだいじだけれど、とらわれていると読み間違えることもあるかもしれない、とおもわせる一節でした。
グローバル化と立憲主義についても、この講座では、一巻設けています。機会があったらまたまえがきだけ、読んでおきたいとおもいます。
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