骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

高麗神社を骨で聴く(第1回・歴史編)

2013-08-23 04:53:03 | 骨で聴く巡礼旅
かつて中国東北部南部から朝鮮半島北部に栄えた国家に高句麗がありました。
歴史の教科書以外ではあまり目にすることがなく、馴染みがあまりないかもしれませんが、この国の最盛期は5世紀の「広開土王」、「長寿王」治世の約100年間といわれ、領土も満洲南部から朝鮮半島の大部分という巨大さを誇っていました。

この時代の高句麗の強勢ぶりをうかがうことができるのは、中国吉林省集安県にある「広開土王碑」です。

当然ながら隋や唐という大国からの侵攻を受けてきました。それをことごとく撃退してきましたが、最終的には唐と新羅の遠征軍により滅亡しました。

その高句麗から日本に渡ってきた人物で、高麗王若光がいます。

若光が渡来した年代については、「日本書紀」から天智天皇称制5年(666年)10月だと推測されます。その中の記述で、高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があるからです。
「続日本紀」の文武天皇大宝3年(703年)には、「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されています。

高句麗は西暦668年に滅亡していますから、若光は滅亡前後の高句麗からの渡来人で、高句麗王族の一人だといわれれています。

その若光は、元正天皇霊亀2年(716年)に武蔵国高麗郡の首長として赴任してきました。現在の埼玉県日高市を中心とした地域です。中世以降は郡域が拡大し、日高市だけでなく、鶴ヶ島市、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となっていきました。

現在は宅地化され、鉄道も整備された地域ですが、当時の高麗郡は未開の原野だったようです。
若光は、日本各地(駿河、甲斐、相模、上総・下総、常陸、下野)に移り住んだ高麗人(高句麗人)1,799人をこの地に集結させ、高麗郡の開拓に当たりました。

ちなみに、703年に高麗若光が大和朝廷から王姓が下賜されたという伝説まであります。
高麗若光が高句麗王族の一人として王姓を認められたというものです。
王姓についての真偽はともかく、高麗若光は、官位は従五位下・高麗郡大領であったのは事実です。

その若光も高麗郡で没し、高麗郡民はその徳を偲びました。
若光の御霊を「高麗明神」として祀り、高麗神社の創建となりました。

以来、高麗神社は若光の子孫が代々宮司を務めてきました。
現在の宮司は60代目とのことです。

現在の高麗神社は「出世明神」とも呼ばれるようになりました。
それは、浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが高麗神社に参拝した後に相次いで総理大臣となったことに由来します。
パワースポットとしても人気があり、年間約40万人の参拝者があるようです。

大学時代から個人的に高麗神社については、様々な思い出があり、随分と久しぶりに訪れることになりました。そこで改めて歴史について思いをはせてみました。

駐車場にクルマをとめ、境内に方に向かうと、将軍標(チャンスン)があります。これを目にするだけで懐かしさがこみ上げて来ます。
チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口の魔除けです。日本では他で目にしないせいか、高麗神社に来たという感激を味わえます。

ちなみにこの将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたもので、自分が最初に参拝に来た大学時代にはありませんでした。その後はむしろこれがシンボル的に記憶に刻み込まれてきました。

さて、今回は歴史だけで何も「骨で聴く」ことはしていません。
次回に境内を散策し、骨伝導ヘッドセットとともに高麗神社をご紹介していきます。