骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

桂谷遍路を骨で聴く

2008-06-09 15:30:55 | 骨で聴く巡礼旅


 伊豆・修善寺の旅は続きます。

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  修善寺を骨で聴く
  ハリストス正教会を骨で聴く
  いぼ石を骨で聴く

 阿字苑のある奥の院へ向かう道には「いろは石」があると、前回伝えました。
 今回は「いろは石」のある場所とも一部で共通する桂谷八十八ヶ所です。

 歴史は浅く、発端は昭和5年です。
 この年、修禅寺の38世だった丘球学は、四国八十八ヶ所の霊場の土を、修善寺の桂谷に移しました。これを桂谷八十八ヶ所として弘法大師の像と札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立したのです。

 四国霊場は伊豆からは遠く、しかも広域に散在しているため、巡拝をすることは容易ではないことから、弘法大使が錫を留めた勝境桂谷ヘ、四国に擬して八十八ヶ所を建立することを発願したのです。

 この地が信者だけでなく、住民や温泉観光客まで、大師の恩沢に浴し身心の利益を得るものが多いことから、この恩沢に報いるためとしたものです。当然ながら功徳は、四国霊場巡拝と等しいとされました。

 距離は四国と比べるとかなり短く、約28㎞の山道となります。歩いての遍路としては一番適した距離かもしれません。
 毎年のべ1200人ほどの巡礼者が集まります。温泉街や周辺の山道を僧侶が先導とした遍路が歩く姿は名物にもなっています。

  それほどまでに巡礼の中で特別な位置づけであるのが四国遍路といえますが、この道は弘法大師空海修行の道だという点を忘れてはいけません。
 大師が御年42歳、つまり厄年のときに開いたといわれています。時に西暦815年です。

 しかしこの815年ですが、実は伝説化した年のようです。

 この5年前から弘法大師空海は京都・高雄山寺で灌頂の壇を創設していました。翌年の816年は嵯峨天皇の勅許により、高野山を与えられました。この間の期間に開創したというのは、明らかに史実と異なるといわざるをえません。弘法大師空海の厄年に絡めた、伝説のひとつなのだろうと思われます。

 また、衛門三郎が遍路の始まりという話も有名な伝説だと思われます。
 衛門三郎は、伊予の国浮穴郡荏原にいた欲深い長者でした。ある日托鉢の僧が現われ、みすぼらしい格好だったせいか弘法大師とは知らず、彼の托鉢をとりあげ投げつけてしまいました。鉢は八つに割れたそうです。
 その翌日から、衛門三郎の八人の男の子が次々に亡くなってしまいました。三郎は自分の罪の深さに目覚め、邪見を捨て改心することになりました。そこで四国巡錫中の大師のあとを追うため、四国巡拝に旅立ったのです。しかし大師に会えぬまま、遂に21回目を迎えます。天長8年です。ついに阿波の国焼山寺の麓で病に倒れてしまいました。

 寝込んでいる三郎に、突然、弘法大師が枕元に現れました。大師は、一寸八分の石に「衛門三郎(一説には梵字)」と刻み、三郎の掌に授けます。受け取った三郎は、安心して息を引き取りました。

 その後、伊予の豪族・河野氏に男子が生まれましたが、その子はいつまでも右手は握られたままで、開きませんでした。そこで安養寺に願をかけたところ、手の中から何と、「衛門三郎」と書かれた石がでてきたというのです。この伝説により、衛門三郎こそが四国遍路を最初に廻った人ということになっています。

 諸説ある四国霊場の誕生伝説ですが、この影響力については、改めて述べる必要もないでしょう。その中でも「ウツシ巡礼」として、日本全国に八十八ヵ所霊場が誕生し、その数の多さについては意外と知られていないかもしれません。

 桂谷八十八ヶ所もその「ウツシ巡礼」のひとつとして輝いているのです。
 だから耳だけでなく骨でも聴きましょう。骨伝導で脳波から功徳を得るというのも悪くありません。

  骨伝導の驚異の秘密

                    



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