吉祥寺の街は東京23区の外にあるものの、郊外の都市機能よりも大都市・東京の重要な繁華街の一つかもしれません。雑踏が奏でる喧騒の街です。骨伝導の騒音対策が有効な街です。
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しかし、この街は江戸からの移住によって誕生した歴史があります。
明暦の大火によって江戸本郷元町にあった諏訪山吉祥寺の門前町が焼失しました。、現在の文京区本郷一丁目、水道橋付近です。
幕府は火災を契機として、新たな都市計画をすることになりました。この地域を大名屋敷として再建することにしたのです。
火災で家屋を失われた吉祥寺門前の住人に対しては、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地としました。条件もよく、5年期限で扶持米を与え、さらに家屋の建築費用も貸与するというものでした。この好条件で希望者を募り、現在の武蔵野市一帯を開墾して住人達を移住させたのです。
現在の吉祥寺はおしゃれな店が集まり、「住みたい街」ランキングでも必ず上位に挙がる街になっています。開拓地の名残はほどんどないでしょう。
⇒ 吉祥寺駅を骨で聴く
JR吉祥寺駅から北側に進むと、アーケードや大型店舗の先に五日市街道が現れます。大きな道路ではありません。この街道から先は住宅街です。
そんな中に岸光山安養寺があります。吉祥寺の繁華街に隣接しているとは思えないほど、ひっそりとした寺院です。
ここが多摩八十八ヶ所霊場の第1番札所です。
多摩八十八ヶ所霊場とは、本家本元の四国八十八ヶ所霊場の「写し」です。
弘法大師空海と骨伝導との関わりは古く、「骨で聴く」旅でも度々取り上げています。弘法大師入唐1200年の記念の年から、中国西安の青龍寺との関係を原点としています。
⇒ 西安青龍寺・幻の小冊子を骨で聴く
東京の多摩地区は弘法大師空海「お大師さま」への信仰心が篤い地域でした。
そこで、文政6年(1823年)弘法大師の一千年御遠忌にあたり、武州多摩郡を巡る霊場として「武玉新国88ヶ所」が開創されました。
しかし、明治の神仏分離令や廃仏毀釈などの時代には、弘法大師霊場にも衰退の傾向が出てきました。
昭和の時代に入り、再び写し霊場が復活しました。昭和9年(1934年)弘法大師一千百年御遠忌を記念して誕生したのです。
高幡不動尊が中心となり、多摩地区の真言宗寺院八十八ヶ寺で再編成され、「多摩八十八ヶ所霊場」が生まれました。
⇒ 高幡不動を骨で聴く
再出発の趣意は、弘法大師の遺徳の讃仰と巡拝を通じての大師信仰の高揚、敷衍にありました。昭和11年には盛大な記念行事が行われたようです。
ただこの後で太平洋戦争という悲劇もあり、この戦争によって巡拝者も少なくなってしまいました。お遍路・巡礼の復活は昭和30年頃からで、現代では健康的なウォーキング要素も含めて本場での四国霊場は毎年多くの人たちが集まります。
多摩八十八ヶ所も、もっと巡拝者が増えてきてほしいものです。
骨伝導は耳をふさがず、骨から脳へと音声を伝えます。
これは音読しているときの脳波と同じ状況になり、シーター波に至ることもあります。この脳波のときに弘法大師の霊力・法力が合わさり、現代の「癒し」効果に繋がります。
これは医療費抑制のための薬事法改正にも通じる話かも知れません。
医薬品登録販売者資格取得も未病治療・予防医療の充実を図るものです。癒し効果が予防医療に繋がることで、高騰する医療費を抑制していけるかもしれません。
⇒ LES医薬品登録販売者講座
医薬品登録販売者により医療用医薬品ではなく、OTC薬(一般用医薬品)で、自己責任の健康管理が出来る仕組みと、骨伝導を活用した弘法大師霊場の巡拝による癒し効果が掛け算となれば、時代は変わるかもしれません。
五日市街道沿いの参道から第1番札所の安養寺へ入ると、山門近くに六地蔵や武蔵野市郷土資料の庚申供養塔が並ぶのが見えます。
この庚申塔は、代官野村彦太夫により吉祥寺新田村の検地を受けた翌年の寛文5年(1665年)に建てられた、旧北多摩郡では最古の庚申塔だそうです。
こんな見所もある安養寺に骨伝導とともに訪れましょう!
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