(1)日本の刑法は「報復主義」をとらないので、殺人を犯しても裁判所が責任能力がないとして罪を問えないと判断した場合には無罪となる。また裁判判断の公正、公平のために「判例主義」をとっており、1人殺人では犯罪行為者が死刑になることは余程のことがない限りまずない。
(2)どちらも遺族側からすればとても納得できる司法判断ではなく、人を殺害しておいて死刑にならないのはおかしい、許せないとの悲痛な声も聞かれる。最近相次いで精神に疾患のある犯罪行為者が殺人罪に問われて、一つは「無罪」に、一つは「無期懲役」と判決された。
(3)神戸市内で家族、近隣住民ら3人殺害、2人に重傷を負わせた事件は殺人罪に問われたが、犯罪行為者は心神喪失と判断されて責任能力がないとして無罪に、横浜では当時看護師が患者3人の点滴に異物を混入して中毒死させたもので殺人罪などに問われたが、こちらは責任能力は認められたが患者家族から追い詰められての「視野が狭くなる心境に陥り」(報道)短絡的に殺害を繰り返したものとして情状酌量を認めて「生涯をかけて償いをさせ、更生の道を歩ませるのが相当」(同)として無期懲役と判決した。
(4)ともに犯罪行為者の身勝手な動機から身内を殺害されて極刑を求める遺族にとっては、到底受け入れられない判決であり、許しがたいものではあるが、裁判官、裁判員の「合議制」で判断、判決したものであり、受け入れざるを得ない。
裁判官の判決の合議制の内容はまれに公開(憲法判断での賛成、反対意見)されることはあるが、判決に至った経過、影響力(誰の意見が主導したのか)などはまず公開されることはなくわからない。
(5)刑法の精神が報復主義をとらずに犯罪行為者の更生、社会復帰を目指すものであり、判例主義による司法史的な公正、公平性をとっている結果としての判断、判決と受け止めざるを得ない。
そもそも裁判は「人」が「人」を裁くという不条理(unreasonableness)、不合理性の世界のものであり、社会秩序(paradigm)、正義(justice)を維持するための判断、判決としての普遍的な基準を示すものと考えられる。
(6)事件、裁判の当事者にとっては直接自身にかかわる個別の限定的な利害の問題であり、判決を普遍論、一般論、社会論として理解することはそもそもむずかしい。時間が解決することはあるが、事件から時を隔てて遺族が犯罪行為者の現状に理解を示すという高邁な姿に接することもまれにはある。
(7)「人」が「人」を裁くむずかしさ(hardness for a person judges a person)の世界で、誰もが究極の(ultimate)犯罪のない社会を目指して協力、努力、精進、取り組みを積み重ねていくしかない。