オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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PPフェア2002より昭和のパチンコ(5):昭和40年以降

2021年09月05日 17時22分31秒 | 歴史

「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)」での「パチンコのルーツを探る」と言うパネル展示のご紹介も、遂に最終回です。今回は昭和40年(1965年)以降の展示です。

混成ゲーム時代 / 昭和43年 オリンピア・ゲーム(スロットマシン)の登場で、遊技場も戦略上、パチンコ・オンリーを改めざるを得なくなった。スマートボール、ラッキーボールなどの横もの機もあわせ、混成ホールとして客集めを図る必要が出てきた。

この画像は昭和43年(1968年)のものとされていますが、オリンピア・ゲーム」が風営機として認可を受けたのは昭和39年(1964年)とされています(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖についての謎)。


しかし、オリンピアが「新しいレジャー」としてマスコミで紹介されるようになるのは、それより1、2年遅い昭和41年(1966年)の終わりころ以降になってからのようです(関連記事:「パチンコ歴史事典」(ガイドワークス, 2017)を勝手に訂正する(2))。この時間差は、認可を受けてから本格的に生産を開始し、普及するまでにいくらか時間がかかったためではないかと想像しています。

オリンピアが世に出た当初は、全く新しい風営機としてかなりの注目を集めたようです。「混成ホール時代」となったのも、パチンコホールとしても未だかつて類例のないオリンピアゲーム機が無視できない存在であったからでしょう。ただ、ひょっとすると、あくまでも想像の域を出ませんが、既にアンダーグラウンド市場で一定の評判を得ていたガチのスロットマシンの例から、期待のようなものもあったのかもしれません。しかし、オリンピアの人気は長くは続かず、10年ほど後にはいくらか残存するという程度まで減少していました。

手動100発機認可 / 昭和44年 消費謳歌時代で、マスコミは消費革命などと言う表現も行った。異常な競馬ブームも話題となり、1000万円の宝くじも登場。そうした世情下とあって、警察庁は遊技機新要件を発表、手動式の100発機を認可した。

それまでは球を1発1発を手で込めていたパチンコでしたが、昭和43年(1968年)、皿の上の玉を自動的に発射口に装填する「連発機」が認可されました。

連発機は昭和20年代後半に一度登場していますが、射幸心をあおるとの理由で昭和30年(1955年)に禁止されていました。しかし、この頃は日本の経済が順調に成長して消費も伸びていたので、いくらか規制を緩めてもよろしかろうと判断されたものと思います。ただし、以前に禁止されたときの連発機は1分間に160-180発を打ち出すことができたとのことですが、新要件の連発機が打ち出せる球は1分間に100発までと定められました。上皿にある球を、正確に0.6秒のペースで発射口に送り込むギミックは精密な設計が必要だったことと思います。この1分間100発の要件は現在に至っても変わっていません。

郊外型パチンコ続々登場 / 昭和50年 郊外パチンコ時代とあって、神奈川県秦野市の仙波峠にはお座敷スタイルも登場。裏手にはブランコなども設置し、家族ぐるみの遊技客へ新手のサービスを示した。

昭和50年(1975年)の郊外がどんな状況であったのか、当時中高生だったワタシは実感としてはよくわかりません。しかしながら、東京一極集中が進む中、労働者の居住圏が都心部から郊外に向かって広がっていく、いわゆるドーナツ化現象が進んでいた時期であったようには思います。

この画像の上の方には「電動コーナー」と書かれた看板が見えます。パチンコの電動ハンドルが認可されたのは昭和48年(1973年)のことです(関連記事:北米に手打ち式パチンコを見る)が、70年代の終わりころまでは、まだ手動式のパチンコが多く残っていたように記憶しています。

国鉄全線スト下の有楽町駅前 / 昭和50年 公労協、国労など三公社五現業が一斉にスト権ストに突入。国鉄は史上最長の全線192時間もストップ。日頃混雑する有楽町駅前も閑散とした。

現在は民営化され「JR」と呼ばれている鉄道会社は、以前は「日本国有鉄道(国鉄)」と言う公営の鉄道でした。この国鉄の「スト権スト」は、当時中高生だったワタシ自身は幸運にもその影響をほとんど受けていません。ただ、新聞やTVのニュースなどで、このストで通勤ができなくなる会社員が会社に泊まり込んだとか、学校が休校になった、あるいは物流に支障をきたしたなど、大きな社会的な混乱があったらしいことは覚えています。

「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)」で展示されていたパネルは以上です。思えばこの頃は、パチンコが本当に「庶民のささやかな娯楽」で済んでいた時代だったと思います。その後日本が豊かになり、人々の可処分所得が増えると、それにつれてパチンコもギャンブルに接近していきました。今ではパチンコがギャンブル依存症の根源のように言われてしまっていることは、パチンコにとって全く不幸なことだと思います。しかし、だからと言って昔のような「ささやかな娯楽」に戻ることもできず、何らかのブレイクスルーがない限り、パチンコの命脈もそう遠くない将来に尽きるのではないかと心配しています。

(このシリーズ・終わり)