オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(4) 80年代の日本におけるビデオポーカーの暗黒時代

2017年03月05日 22時12分38秒 | 歴史

■前回までのあらすじ
1978年、sigma社は、米国メーカーと技術提携し開発製造した、日本初となるビデオポーカー機「TV・POKER」を自社ロケに設置した。そのゲーム内容は、1970年頃より米国で商品化されていた、複数のリアプロジェクターを使用したビデオポーカー機とほぼ同じものだった。

米国では、バーリーの販社であるバーリー・ディストリビューティング社(BD社)の社長であったウィリアム・サイ・レッド(William "Si" Redd)が、1970年代の早い時期から、RavenやFortun Coinなどビデオゲーミング機メーカーの買収を進めていた。バーリーがBD社を吸収することに決めた際、サイは、電子ゲームに関する権利を自分が保持し続けることを条件にこれに応じた。バーリーを離れたサイは、買収したビデオスロットメーカーの複合企業体「A1 Supply」でビデオ分野のゲーミング機を開発していく。A1 Supplyは1979年にその名を「SIRCOMA」に変え、1981年には「IGT」として株式を公開するに至った。

Sigmaの創立者である真鍋勝紀は、BD社の社長時代のサイに接触しており、sigmaのTV・POKERは、その縁でA1 Supply社製のビデオポーカーの供給を受けたものと思われる。


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ビデオゲーム技術の進歩はまさに日進月歩で、1980年にはカラー映像は当たり前となり、また画像解像度もいくらか高くなって、表現力は飛躍的に向上していきました。それにつれ、sigma以外にもビデオポーカーの開発に乗り出すメーカーが出てきました。

ボナンザ・エンタープライゼス(BONANZA ENTERPRISES、以下ボナンザ)という横浜にあるゲーム機メーカーは、1980年、「GOLDEN POKER」というカラーのビデオポーカー機を発売します。

写真
ボナンザ・エンタープライゼスのゴールデンポーカーのフライヤーと画面画像の拡大図。スタンダードな絵札も、曲がりなりにも表現できている。なお、このフライヤーは海外向けらしく、説明文は全て英文になっている。

このボナンザ社は、1978年に物議をかもした米国エキシディ社のビデオゲーム「デス・レース」(関連記事:【小ネタ】デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム)を輸入販売していた会社で、以前から娯楽関連の輸出入業務も盛んに行っていたようです。

私がこのGOLDEN POKERを見かけたのはもっぱら個人営業の小さな店くらいで、セガやタイトーなど、大資本がオペレートするロケでは見た覚えがありません。しかし、GOLDEN POKERは「ポーカー喫茶」「ゲーム喫茶」という市場で広く普及し、やがて大きな社会問題へと発展して行きます。

飲食店と違法なゲーム機賭博は、以前から親和性が高いところがありました(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)。従来の代表的なGマシン(アミューズメント業界では、ギャンブルと言う言葉を忌んで、「G(ジー)」と呼ぶことが多かった)であるロタミントやスロットマシン、あるいはダービーゲーム(関連記事:ロタミントの記憶)などは、殆どが筐体とゲームが一体となったものでしたが、この頃は飲食店にもブロック崩しやインベーダーゲームなどが遊べるテーブル筐体が普及しており、ビデオポーカーを導入するプラットフォームが整っていました。

警察白書に「ポーカーゲーム」という言葉が初めて登場するのはの昭和59年(注・1984年)版からですが、そこには「ポーカーゲーム等のテレビゲーム機などを使用した賭博事犯が56年(筆者注・1981年)後半から急激に増加」と記述されています。ゲーム機賭博の検挙状況を見ると、1980年に検挙された件数は475件、押収金額は7700万円でしたが、81年には検挙件数こそ490件と殆ど伸びてはいないものの、押収金額はほぼ倍の1.4億円となります。更にその翌82年には、検挙件数は1870件、押収金額は9.6億円と、80年のレベルと比較すると検挙件数で約4倍、押収金額は12.5倍と飛躍的に増大しました。

ブームに乗って類似品を製造したメーカーもいたでしょうが、当時、GOLDEN POKERは、Gマシンの代表機種であったことは間違いないようです。ボナンザ社は、1983年の春先頃、業務用ゲーム機メーカーの業界団体である日本アミューズメントマシン工業協会(JAMMA)を除名されています。この辺の事情については、当時の業界誌に記事がありそうなので、いずれ調べてみたいと思っていますが、この違法な賭博営業に機械を供給していると見なされたことが主な原因であろうことは想像に難くありません。

ビデオポーカーによる賭博事犯は80年代初頭から爆発的に広まり、そしてこれが、ゲームセンターが風俗営業となる理由の一つになりました。1984年、当時の風俗営業取締法(風営法)は風俗営業適正化法(風適法)に改正され、ゲームセンターは新たな風俗営業となって、以降警察の監督管理を受ける業種となりました。これにより、ゲームセンターは終夜営業ができなくなり、また営業を営むにあたっては所轄の警察署の許可を要することになりました。昨年、風適法が改正され、ダンスをさせる営業(クラブ、ディスコなど)が風俗営業から外されましたが、ゲームセンターが風俗営業から外されるという話は、現時点ではまだ具体的な議論が行われるには至っていません。

(つづく)