オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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商業施設の屋上の記憶(1) 渋谷

2016年09月04日 00時33分52秒 | ロケーション

注記:橙色の文字は2024年7月20日に追記・修正した部分。

1960年代から70年代後半ころまで、デパートや駅ビル、あるいは少し大きなスーパーなどの商業施設の屋上には、たいていゲームコーナーが設置されていたものでした。今ほどゲームセンターと言うものがあちこちになかった時代、ワタシにとってこれらは、コインマシンに触れることができる数少ない場所の一つでした。

今回は、記憶に残る商業施設の屋上の話を記録していこうと思います。ただ、1972年以前の資料は乏しく、掲載できるろくな画像がありません。

■東急百貨店東横店
日本娯楽機(当時。現ニチゴ)による運営。私が未就学児童であった1960年代の半ばから小学生だった1972年頃までの間、親に手を引かれてしばしば行ったデパートです。そのうちの何回かに1回くらいはその屋上のゲームコーナーで少しだけ遊ばせてもらっていたものでした。

東急百貨店東横店は、やれ東館だ西館だと何かと複雑な作りになっており、ワタシは最後まで位置関係が掴めずにおりました。最近ネット上を調べたところ、百貨店のレイアウトを図解するサイトを発見しましたので、メモしておこうと思います。


1972年ころの東急百貨店東横店の屋上の風景。業界誌「アミューズメント産業」の1972年7月号より(以下2点も同じ)。上記サイトにより、屋上遊園があったのは東1号館であることがわかった。


中央館に近いところから、東1号館方向を臨むアングルだと思わる。


この風景は自分が幼少のころに遊んでいた時の記憶とマッチする。

ここで遊んだコインマシンはいろいろあるはずですが、タイトルさえ覚えていないものが殆どです。僅かに思い出せるものだけでも挙げておこうと思います。

・「王将」(製造元製造年不明 児童遊園設備、1968):弾き入れた鋼球が、盤面に配置された将棋の駒の形をしたロールオーバーを通過すると得点になる国産ピンボール機。最も高い得点が稼げるのは「王将」の1000点で、他に歩や香車、飛車角などのロールオーバーがあり、駒の格により確か100点~500点程度が加算されたように思います。1ゲームは10球程度、4000点で再ゲームができたように記憶していますが、定かではありません。

・「ウルトラアタック」(製造元製造年不明 日本展望娯楽、1971頃):ウルトラセブンをテーマにしたフリッパー付き国産ピンボール機。これはyoutubeで動画が公開されているのを発見しました→ https://www.youtube.com/watch?v=ZPGP91T95mk

・エビスボール:(ひまわり製作所/水野商会、製造年不明 1974以前):硬貨を投入すると、笑い声が響き渡ってゲームが始まる国産ピンボールのビンゴゲーム。

・「Knock Out ミニボクシング」(名称不詳、関西精機?、製造年不明 三共遊園設備、1970以前):レバーでボクシンググラブを操作し、筐体の向こう側で左右にウェービングするボクサー像の鼻柱を打つ。

・「ネズミ退治 ねずみ退治」(名称不詳、製造元、製造年不明 三共遊園設備、1970以前):ベルト上を左から右に高速移動するネズミの模型をタイミングよく叩く。

・「アポロ77名称、製造元、製造年不明 日本遊園設備、1969以前):螺旋や宙返りなど、ローラーコースターのような複雑なコースに鋼球を高速で発射して、筐体上部で回転する月面の穴に入れる。

現在の東急百貨店東横店は、東横線渋谷駅の移転に伴い解体中ですが、そうなる直前の2013年に、最後の姿を見ておこうと訪れてみました。

この時点の運営もニチゴによるものです。ゲームコーナーは申し訳程度に残るのみで、広い屋上の多くの部分は乗り物類で占められていましたが、平日の日中ということもあるでしょうが、数えるほどの親子連れがいるだけで、閑散としていました。屋上の一角には、長いこと閉鎖されたままと思しき飲食のスタンドがあり、この時代、百貨店の屋上の役割は終わってしまったのかと寂しく感じました。


閉店直前の屋上遊園の様子。奥のテントがゲームコーナー。


ワタシの記憶では、この左側がゲームコーナーだった。この時は、柵で区切られ、従業員用の通路とバックヤードになっていたように見えた。写真右下は、長く閉じられたままになっていると思しき飲食のスタンド。


ゲームコーナー内の様子。殆どが幼児・小児向けの機器。


そして寂しいお知らせが…


■東急文化会館屋上
ナムコによる運営。移転前の東横線渋谷駅の、明治通りを挟んだ向かいにあり、屋上のプラネタリウムのドームは、長い間渋谷を象徴する風景のひとつでした。これも、東横線渋谷駅の移転に伴い解体され、現在跡地には「ヒカリエ」が建っています。

文化会館の屋上へは、ワタシが小学生のころ、小学校の天文クラブの活動としてプラネタリウムに行ったついでに立ち寄ったことが数回程度あったきりでしたが、その頃は「BallyHOO」(バーリー、1969)というピンボール機で延々遊んでいたものでした。また、SEGAのいくつかのエレメカ機などを覚えています。メインであるエレベーターホールの外の一部にもテント掛けで拡張したゲームコーナーがあり、ここには

・「クレージー15ゲーム」(こまや製作所、1960年代)


・「ガンファイト」(セガ、1972頃)


・アンタッチャブル(関西精機、製造年不明)


などのほか、国産のエレメカ器がおそらく10数台程度設置されていました。

それから少しの時が過ぎ、ワタシが大学生となり、渋谷界隈を根城とするようになった1980年前後にも、しばしば覗きに行きました。エレベーターを降りて右手の壁に米国製のピンボールが5、6台設置されていたのは昔と変わりませんでしたが、ビデオゲームの比率が飛躍的に高くなっているところに時代の変化を感じたものでした。

世界初の喋るピンボール「GORGAR」(ウィリアムズ、1979)のバックグラスには、機械が喋っている内容(英語)を説明した手書きPOPが貼られていたり、やはり世界初の喋るビデオゲーム「スピーク&レスキュー」(サン電子、1980)や、画面を二分割し、潜水艦で互いに相手の艦隊を撃破する対戦型ビデオゲーム「Fire One」(エキシディ、1979)、それにナムコのビデオゲーム第二弾「キューティーQ」(ナムコ、1979)などの他、テント掛けの拡張部分には、小学生時代に見たアナログ機も依然として多く残っていました。

長くなりましたので、「商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺」に続きます。