2025年、gooブログのサービス終了に伴い、noteへお引越ししました。
あの世に聞いた、この世の仕組み
死後の世界.4
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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引き続き、執念深く「Reader's Choice」でのコメント大募集中!
ご協力のほど、よろしくお願いいたします!
*****
シャーロック・ホームズとワトソン博士がキャンプに出かけた。二人は星空の下、テントを張って眠りについた。
まだ暗い時間に、ホームズがワトソンを起こした。「ワトソン君、上を見て君の推理を聞かせてくれたまえ。」
ワトソンはちょっと考えて答えた。「無数の星が見える。」
ホームズ:「そのことから何が分かるかね、ワトソン君」
ワトソン:「この大宇宙には何百万もの銀河とおそらくは何十億もの惑星がある。占星学的に言えば、土星が獅子座宮に入っている。測時法で言えば、今はだいたい午前3時15分だ。神学的にならば、神は全能で、ぼくたちはちっぽけで取るに足らない存在だ。気象学的には、たぶん明日はよい天気だろう。」
ホームズ:「バカ! 僕たちのテントが盗まれたんだ!」
…
あ、どうも。そこはかとなくインテリジェンスを醸し出す、知的ジョークとともにこんにちは。
匂い立つ知性の泉、キュアブラックこと、黒斎です。
プリキュア・メタモルフォーゼっ☆
うん。久しぶりでしょ。こういう唐突な始まり方。
あ、やっぱ、こういうのいらないですかそうですか。
じゃ、昨日の続きとまいりましょう。
…
「あなたは、いつ生まれましたか?」
こう聞かれたら、ほとんどの方は「昭和(平成)○年○月○日です。」と、誕生日をお答えになると思います。
なのですが、この返答では一般的・常識的。つまりは、知識にまみれて本質を見失ってしまったワトソン君レベルの返答です。
もう少しホームズチックに本質を見つめてみましょう。
「誕生日」は、人間が勝手に決めた便宜上のものです。
母親のお腹から出てきた時を「誕生」としよう、という決まり事でしかありません。
だって、出産前から、すでにあなたはいたのですから。
記憶にないのはしょうがないですが、それでも、お母さんのお腹を、内側から元気よく蹴っていたのは間違いないはずです。
ってことはですよ、「本当は、誕生日以前から存在している」ということは誰しも納得がいくかと思います。
さて、問題はその先です。
では、自分はいつから存在していたのでしょうか。
そうなるともうわかりませんね。
多くの方はこう考えているかもしれません。
父親の精子と、母親の卵子が結びついた瞬間、そこに「魂」が入ったのだ、と。
証明することは出来ませんが、「魂」という仮説を持ち込むことによって、話のつじつまが見事に合ってしまうからです。
僕も以前このブログにおいて「旅行計画」や「18禁」などの記事で、そういった比喩をお話ししたことがあります。
なので、余計先ほどお話ししたようなイメージを強くお持ちの方も多いと思いますが、それは真実とは言えないんです。(お前が言うなと怒られそうな気もしますが…)
比喩はあくまで比喩でしかないですし、あの比喩自体も、かなり話の次元を下げた表現です。
誤解の無いように、ここでお話しておきます。「ヤドカリ」の様に、肉体から肉体へと渡り歩く「魂(永遠不滅のキャラクター)」は存在しません。輪廻転生は、そういうことではないんです。
これは深く語らなくてもなんとなくご理解いただけるかとは思いますが、「比喩」は非常に「通約不可能性」が発生しやすいコミュニケーション方法です。
とはいえ、この先も比喩を通してしかお話することができません。元々が言葉に出来ない次元の話だからです。
と、いうわけで、ここから若干話の次元を上げてお話しますので、多少混乱してしまうかもしれませんが、一度「魂」という概念を捨ててみてください。
今度は「魂」という「仮説」を用いずに、「自分はいつ生まれたのか」を考えてみましょう。
そうするとね、やっぱりわからなくなるんです。
どうにも行き詰まってしまいます。
それはなぜかと言いますと、先日までのお話と同様に「もともと答えに行き着けない変な問い方だから」なんです。
「自分はいつ生まれたのか?」という問いの立て方自体が間違っていたんです。
お釈迦様が凄いのはここ。
そこに気づいて、全く別角度から驚くべき解答を見出しました。
「そもそも生まれていないのだよ、ワトソン君。」と。
…
誰一人、何一つ、もともと生まれてなんていない。
生まれていないのだから、「いつ生まれたか」に答えられるはずがない。
生まれていないのだから、死ねるわけがない。
ゆえに、「死後」を語れるはずがない。
仮に「生」と「死」を別な言葉で言い表すならば、「現象」や「状態」だ。
「生まれる前どこにいたか」ではなく、「どういう状態だったか」の方がまだ近い。
「死んだらどうなるか」ではなく、「どういう状態になるか」の方がまだ近い。
「生」や「死」も、「誕生日」などと同じように、便宜上人間が勝手に作った概念でしかない。
「生命」とは「生まれる」「死ぬ」で語られる内容ではないのだ。
…
これが、以前ご紹介した「般若心経」の中に出てくる「不生不滅」という話です。
このお話がそのまま「諸行無常」「諸法無我」「因縁」に結びつきます。
で、このお話の続きに入る前に、話の流れがわかりやすくなるかと思いますので、こちらの記事を読み返してみてください。
2007年11月19日投稿『境界線』
2007年11月20日投稿『境界線.2』
2007年11月21日投稿『境界線.3』
←ちなみに、冒頭で紹介したジョークは、イギリスのウェブサイト『ラフラボ』(Laugh Lab)が2002年に発表した「世界で一番笑えるジョーク」の第2位に選ばれたモノです。 ところで、このブログは今日何位?
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シャーロック・ホームズとワトソン博士がキャンプに出かけた。二人は星空の下、テントを張って眠りについた。
まだ暗い時間に、ホームズがワトソンを起こした。「ワトソン君、上を見て君の推理を聞かせてくれたまえ。」
ワトソンはちょっと考えて答えた。「無数の星が見える。」
ホームズ:「そのことから何が分かるかね、ワトソン君」
ワトソン:「この大宇宙には何百万もの銀河とおそらくは何十億もの惑星がある。占星学的に言えば、土星が獅子座宮に入っている。測時法で言えば、今はだいたい午前3時15分だ。神学的にならば、神は全能で、ぼくたちはちっぽけで取るに足らない存在だ。気象学的には、たぶん明日はよい天気だろう。」
ホームズ:「バカ! 僕たちのテントが盗まれたんだ!」
…
あ、どうも。そこはかとなくインテリジェンスを醸し出す、知的ジョークとともにこんにちは。
匂い立つ知性の泉、キュアブラックこと、黒斎です。
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うん。久しぶりでしょ。こういう唐突な始まり方。
あ、やっぱ、こういうのいらないですかそうですか。
じゃ、昨日の続きとまいりましょう。
…
「あなたは、いつ生まれましたか?」
こう聞かれたら、ほとんどの方は「昭和(平成)○年○月○日です。」と、誕生日をお答えになると思います。
なのですが、この返答では一般的・常識的。つまりは、知識にまみれて本質を見失ってしまったワトソン君レベルの返答です。
もう少しホームズチックに本質を見つめてみましょう。
「誕生日」は、人間が勝手に決めた便宜上のものです。
母親のお腹から出てきた時を「誕生」としよう、という決まり事でしかありません。
だって、出産前から、すでにあなたはいたのですから。
記憶にないのはしょうがないですが、それでも、お母さんのお腹を、内側から元気よく蹴っていたのは間違いないはずです。
ってことはですよ、「本当は、誕生日以前から存在している」ということは誰しも納得がいくかと思います。
さて、問題はその先です。
では、自分はいつから存在していたのでしょうか。
そうなるともうわかりませんね。
多くの方はこう考えているかもしれません。
父親の精子と、母親の卵子が結びついた瞬間、そこに「魂」が入ったのだ、と。
証明することは出来ませんが、「魂」という仮説を持ち込むことによって、話のつじつまが見事に合ってしまうからです。
僕も以前このブログにおいて「旅行計画」や「18禁」などの記事で、そういった比喩をお話ししたことがあります。
なので、余計先ほどお話ししたようなイメージを強くお持ちの方も多いと思いますが、それは真実とは言えないんです。(お前が言うなと怒られそうな気もしますが…)
比喩はあくまで比喩でしかないですし、あの比喩自体も、かなり話の次元を下げた表現です。
誤解の無いように、ここでお話しておきます。「ヤドカリ」の様に、肉体から肉体へと渡り歩く「魂(永遠不滅のキャラクター)」は存在しません。輪廻転生は、そういうことではないんです。
これは深く語らなくてもなんとなくご理解いただけるかとは思いますが、「比喩」は非常に「通約不可能性」が発生しやすいコミュニケーション方法です。
とはいえ、この先も比喩を通してしかお話することができません。元々が言葉に出来ない次元の話だからです。
と、いうわけで、ここから若干話の次元を上げてお話しますので、多少混乱してしまうかもしれませんが、一度「魂」という概念を捨ててみてください。
今度は「魂」という「仮説」を用いずに、「自分はいつ生まれたのか」を考えてみましょう。
そうするとね、やっぱりわからなくなるんです。
どうにも行き詰まってしまいます。
それはなぜかと言いますと、先日までのお話と同様に「もともと答えに行き着けない変な問い方だから」なんです。
「自分はいつ生まれたのか?」という問いの立て方自体が間違っていたんです。
お釈迦様が凄いのはここ。
そこに気づいて、全く別角度から驚くべき解答を見出しました。
「そもそも生まれていないのだよ、ワトソン君。」と。
…
誰一人、何一つ、もともと生まれてなんていない。
生まれていないのだから、「いつ生まれたか」に答えられるはずがない。
生まれていないのだから、死ねるわけがない。
ゆえに、「死後」を語れるはずがない。
仮に「生」と「死」を別な言葉で言い表すならば、「現象」や「状態」だ。
「生まれる前どこにいたか」ではなく、「どういう状態だったか」の方がまだ近い。
「死んだらどうなるか」ではなく、「どういう状態になるか」の方がまだ近い。
「生」や「死」も、「誕生日」などと同じように、便宜上人間が勝手に作った概念でしかない。
「生命」とは「生まれる」「死ぬ」で語られる内容ではないのだ。
…
これが、以前ご紹介した「般若心経」の中に出てくる「不生不滅」という話です。
このお話がそのまま「諸行無常」「諸法無我」「因縁」に結びつきます。
で、このお話の続きに入る前に、話の流れがわかりやすくなるかと思いますので、こちらの記事を読み返してみてください。
2007年11月19日投稿『境界線』
2007年11月20日投稿『境界線.2』
2007年11月21日投稿『境界線.3』

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死後の世界.3
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『死後の世界は、あるのか、ないのか?』
これに対しては「ある」とも言えないし、「ない」とも言えません。
そもそもが、「有る無し」という『二元論』で語れる内容ではないからです。
「YESであって、NOである」「YESでもNOでもない」を加えた『四元論』でも無理です。
でも仮に…
「死後の世界がある(ない)」として、それを知ったとしたらどうでしょうか。
その知識は何かの役に立つのでしょうか? よく考えてみてください。そう、結局知ったところで何の役にも立たないんです。
だって私たちは、今まさに生きているのですから。
まして、それを何かの方法で知ったとしても、それが本当かどうかを確かめるには、実際に死んでみるしか方法はありません。
自分が生きている以上「死後」は経験できません。確認もできません。
(僕も含め)誰かが「あの世とはこういうものですよ。」と話したところで、それはその人の主観でしかないわけです。
「私がそう感じている=正しい」というロジックは成立しません。「主観」はあくまで「その人の主観」であり「真理」ではありません。
ですから、どんなに頑張っても、この問いに対する答えには行き着きません。袋小路に迷い込んだまま寿命を迎えてしまいます。(まぁ、そう言う意味ではその時初めて事の正体を確かめられるワケですが。)
結局生きている間は、「考えても無駄」なワケです。
と、言うことで、今度は「死後の世界」ではなく、「死」そのものを考えてみましょう。
もし、「死」が捉えられるものであるならば、当然「その後」、つまり、「死後」の存在が明確になるわけです。
なのですが…
これも突き詰めて考えていくとおかしなことになっていきます。
まず、『死』の定義を辞書検索してみました。結果はこの通り。
し【死】
生命がなくなること。死ぬこと。また、生命が存在しないこと。
「死」を調べてるのに「死ぬこと」ってこたないよね~。なんてツッコミはおいといて…
「生命がなくなること。また、生命が存在しないこと。」を考えましょう。
「生命がなくなること」が「死」ならば、「生命」が何なのかを明らかにせねばなりません。
ってことで再度辞書検索。
せいめい【生命】
生物が生物でありつづける根源。いのち。
いのち【命】
生物が生きていくためのもとの力となるもの。生命。
これを先ほどの「死」の定義と合体させますと、
「生物が生物でありつづける根源がなくなること。生物が生きていくためのもとの力となるものが存在しないこと。」
が、「死」の定義となります。
やっぱり、何を言っているのかわかんない。w
なんなんだよ、「生物が生物でありつづける根源」という、わかるようでわからない不明瞭な表現は。
ね。「死後の世界」云々の前に、自分が「生きている」ということがどういう事なのかがわかっていないんです。今、実際にこうして「生きている」というのに。
自分の「今の状態」すら理解できていない人間が、「後の状態」を正確に把握することなどできるでしょうか?
お釈迦様登場以前の宗教は、まさにこの問題で躓いていました。(いまだ躓きっぱなしの宗教も多いですが…)
「あるのか・ないのか」をベースに考えてしまうと、どうしても話のつじつまがここで合わなくなってしまうので、それを解決したいがために「神」や「魂」という漠然とした「永遠不滅の絶対的存在」を作り上げたんです。
絶対的な存在である「神」が「魂(命)」を作った。その魂が肉体に宿ることを「生」と呼ぶことにしよう。その魂が肉体から離れることを「死」と呼ぼう。仮に肉体は滅んでも「魂」は滅びずそのまま永遠の世界で生き続ける。その魂はいずれ新しい肉体に宿りさらなる「生」になるのだ、と。
「神」や「魂」は確認・証明された存在ではなく、話のつじつま合わせのために必要だったから生まれた「仮説」なんです。
そこから「神(魂)」という「実在しない漠然とした概念(仮説)」だけが一人歩きを始め、あちこちで色々な神様が登場することになりました。
で、「こっちの神様が本物だ」、「いや、お前のいう神様が偽物だ」と言い争いを始め、お互いが殺し合いを繰り返すことで「死」を実際に体験すると。
いやはや、なんとも馬鹿馬鹿しい。
でもこれは、宗教や精神世界だけに留まった話じゃないんです。
ありとあらゆるところで見られる現象・言い争いです。
「ある・ない」や「善・悪」など、人間は何かと二元論で決着をつけたがります。
なのですが、前回・前々回でご説明したとおり、物事・現象の本質はそういう「2つの対極にある事柄」にはないんです。
それ以外の所(捉え方)に「本質」を見出す道があるんです。
その別の道のことを、以前軽く紹介した「中道」といいます。
なので、「中道」とは言っても「真ん中を取る」とか「バランスを取って平均を行く」という意味ではありません。
「両極に偏らない、まるっきり別な道」なんです。(このニュアンス、伝わってますでしょうか?)
では、お釈迦様がその「中道」によって見つけた「生」「死」「命」の正体とは…
それが、「諸行無常」「諸法無我」「因縁」で語られている内容です。
と、いうことでまだまだ続きます。
←コメント同様、こちらもご協力のほど、よろしくお願いいたします!
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『死後の世界は、あるのか、ないのか?』
これに対しては「ある」とも言えないし、「ない」とも言えません。
そもそもが、「有る無し」という『二元論』で語れる内容ではないからです。
「YESであって、NOである」「YESでもNOでもない」を加えた『四元論』でも無理です。
でも仮に…
「死後の世界がある(ない)」として、それを知ったとしたらどうでしょうか。
その知識は何かの役に立つのでしょうか? よく考えてみてください。そう、結局知ったところで何の役にも立たないんです。
だって私たちは、今まさに生きているのですから。
まして、それを何かの方法で知ったとしても、それが本当かどうかを確かめるには、実際に死んでみるしか方法はありません。
自分が生きている以上「死後」は経験できません。確認もできません。
(僕も含め)誰かが「あの世とはこういうものですよ。」と話したところで、それはその人の主観でしかないわけです。
「私がそう感じている=正しい」というロジックは成立しません。「主観」はあくまで「その人の主観」であり「真理」ではありません。
ですから、どんなに頑張っても、この問いに対する答えには行き着きません。袋小路に迷い込んだまま寿命を迎えてしまいます。(まぁ、そう言う意味ではその時初めて事の正体を確かめられるワケですが。)
結局生きている間は、「考えても無駄」なワケです。
と、言うことで、今度は「死後の世界」ではなく、「死」そのものを考えてみましょう。
もし、「死」が捉えられるものであるならば、当然「その後」、つまり、「死後」の存在が明確になるわけです。
なのですが…
これも突き詰めて考えていくとおかしなことになっていきます。
まず、『死』の定義を辞書検索してみました。結果はこの通り。
し【死】
生命がなくなること。死ぬこと。また、生命が存在しないこと。
「死」を調べてるのに「死ぬこと」ってこたないよね~。なんてツッコミはおいといて…
「生命がなくなること。また、生命が存在しないこと。」を考えましょう。
「生命がなくなること」が「死」ならば、「生命」が何なのかを明らかにせねばなりません。
ってことで再度辞書検索。
せいめい【生命】
生物が生物でありつづける根源。いのち。
いのち【命】
生物が生きていくためのもとの力となるもの。生命。
これを先ほどの「死」の定義と合体させますと、
「生物が生物でありつづける根源がなくなること。生物が生きていくためのもとの力となるものが存在しないこと。」
が、「死」の定義となります。
やっぱり、何を言っているのかわかんない。w
なんなんだよ、「生物が生物でありつづける根源」という、わかるようでわからない不明瞭な表現は。
ね。「死後の世界」云々の前に、自分が「生きている」ということがどういう事なのかがわかっていないんです。今、実際にこうして「生きている」というのに。
自分の「今の状態」すら理解できていない人間が、「後の状態」を正確に把握することなどできるでしょうか?
お釈迦様登場以前の宗教は、まさにこの問題で躓いていました。(いまだ躓きっぱなしの宗教も多いですが…)
「あるのか・ないのか」をベースに考えてしまうと、どうしても話のつじつまがここで合わなくなってしまうので、それを解決したいがために「神」や「魂」という漠然とした「永遠不滅の絶対的存在」を作り上げたんです。
絶対的な存在である「神」が「魂(命)」を作った。その魂が肉体に宿ることを「生」と呼ぶことにしよう。その魂が肉体から離れることを「死」と呼ぼう。仮に肉体は滅んでも「魂」は滅びずそのまま永遠の世界で生き続ける。その魂はいずれ新しい肉体に宿りさらなる「生」になるのだ、と。
「神」や「魂」は確認・証明された存在ではなく、話のつじつま合わせのために必要だったから生まれた「仮説」なんです。
そこから「神(魂)」という「実在しない漠然とした概念(仮説)」だけが一人歩きを始め、あちこちで色々な神様が登場することになりました。
で、「こっちの神様が本物だ」、「いや、お前のいう神様が偽物だ」と言い争いを始め、お互いが殺し合いを繰り返すことで「死」を実際に体験すると。
いやはや、なんとも馬鹿馬鹿しい。
でもこれは、宗教や精神世界だけに留まった話じゃないんです。
ありとあらゆるところで見られる現象・言い争いです。
「ある・ない」や「善・悪」など、人間は何かと二元論で決着をつけたがります。
なのですが、前回・前々回でご説明したとおり、物事・現象の本質はそういう「2つの対極にある事柄」にはないんです。
それ以外の所(捉え方)に「本質」を見出す道があるんです。
その別の道のことを、以前軽く紹介した「中道」といいます。
なので、「中道」とは言っても「真ん中を取る」とか「バランスを取って平均を行く」という意味ではありません。
「両極に偏らない、まるっきり別な道」なんです。(このニュアンス、伝わってますでしょうか?)
では、お釈迦様がその「中道」によって見つけた「生」「死」「命」の正体とは…
それが、「諸行無常」「諸法無我」「因縁」で語られている内容です。
と、いうことでまだまだ続きます。

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死後の世界.2
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引き続き、しつこく「Reader's Choice」でのコメント大募集中!
ご協力のほど、よろしくお願いいたします!
*****
『死後の世界は、あるのか、ないのか?』
今回のテーマを書く切っ掛けになったのは、以前いただいたヘンゼルとグレーテルさんのこんなコメントです。
2008年5月27日投稿『酒は百薬の長』のコメント欄より
*****
なんで僕も含めてたくさんの人がその「下らないところ」にこだわるかというとね
やっぱり嘘に人生を懸ける気にはなれないからですよ(死の恐怖やそれに関連する恐れに囚われている人は特にそうです
魂と死後の世界の存在を基盤にして成り立っている人生哲学がスピリチュアリズムでしょう?
「死後の世界が在るか無いかは本当はどうでもいいのです」みたいなこというスピリチュアリストも何人か見てきましたけどね
「在るか無いか判らない」じゃ弱いんです。
死後の世界と魂の存在を拠り所にした人生観を持とうと思ったら、やっぱりその前提が確かなものでないと
誰か霊が存在する証拠を示してくれる人いませんかね
もっとも、元々存在しないのなら証拠の示しようもないですけど…
なにやら関連する記事を書いて下さるそうなんで、全っ然期待しないで待ってます(笑
気が変わりやすい黒斎さんのこと、この程度の口約束はあまりアテに………(´~`;)
僕もそうですが「下らないところ」にこだわる人の殆どは、単なる興味本位じゃないですよ
スピリチュアリズムをより確信するためです
だから「守護霊と交信できるんなら、霊にしか判り得ないようなことを話してくれれば、一発で信用出来るのにな~」とか思っちゃうわけです
まあそんなこと出来なくても、「下らないところ」にこだわることの馬鹿馬鹿しさを納得のいく形で説明していただけたら幸いです
*****
気持ちはわかるんです。なんとなく。
でも…ね…
やっぱり「下らない」というより、なんといいますか…。「ずれてる」んですよ。
>魂と死後の世界の存在を基盤にして成り立っている人生哲学がスピリチュアリズムでしょう?
スピリチュアリズムの定義を「交霊術」とお考えなのであれば、当然「魂と死後の世界の存在」がベースになければ成り立ちませんが、「精神主義」や「人生哲学」と定義するならば、話は全く違います。
>「死後の世界が在るか無いかは本当はどうでもいいのです」
>みたいなこというスピリチュアリストも何人か見てきましたけどね
実にまっとうじゃないですか。それこそ本当の「スピリチュアル(精神主義・人生哲学)」だと思いますよ。
>「在るか無いか判らない」じゃ弱いんです。
問題はそこじゃないんです。
>死後の世界と魂の存在を拠り所にした人生観を持とうと思ったら…
なぜそんな所を人生観の拠り所にするの?
…というお話を説明したくて、前回こんな例文を挙げてみました。
Q.自動車は、安全な乗り物ですか?
この質問に「YESかNOで答えてください。」と詰め寄られても、答えられません。
その理由は前回ご説明したとおり、問いの立て方自体に問題があるからです。
それなのに、
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「この答えがハッキリするまで、自動車教習所には行きません!」
なんて人がいたとしたら、いつまで経っても免許を取得することはできません。
自分が免許を取得するかどうかに、自動車が安全な乗り物か否かは関係ないんです。
そこに「正確に」問いを立てるのであれば、「自動車は安全か?」ではなく、その前段階、「自動車とは何か?」と問うべきなんです。
「自動車とは何か」を理解したからこそ、「こう扱えば安全」「こういう使い方は危険」となっていく。
『死後の世界の有無』も、これと同じことなんです。
「答えろ」と言われても答えられません。それは「わからないから」でも、「教えたくないから」でもなく、答えようのない変な質問をされているからです。
これも、正確に問いを立てるとすれば、「死後とは何か?」が本来あるべき姿です。
そこを突き詰めていけば「死後以前に、死とは何か?」となります。
「死」を考えるためには「“死後”に対する“死前”、つまり生とは何か?」を考えざるを得ません。
そこからさらに進んでいくと、「…とすれば、どう生きるべきか」になるんです。
だからほら、結局問題は「どう生きるか」であって、「死後の世界の有無は関係ない。どうでもいい。」に行き着きます。
この問いが「魂」や「霊魂」、「神」になっても同じことです。
それの「有る無し」ではなく、その前に、「魂って何?」「霊魂って何?」「神って何?」が問われるべきなんです。
そもそもそれが何なのかが明確でないのだから、「有る無し」すら問えないんです。
…って、伝わってますかね?
←「どうでもいい」とは言わないで…
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『死後の世界は、あるのか、ないのか?』
今回のテーマを書く切っ掛けになったのは、以前いただいたヘンゼルとグレーテルさんのこんなコメントです。
2008年5月27日投稿『酒は百薬の長』のコメント欄より
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なんで僕も含めてたくさんの人がその「下らないところ」にこだわるかというとね
やっぱり嘘に人生を懸ける気にはなれないからですよ(死の恐怖やそれに関連する恐れに囚われている人は特にそうです
魂と死後の世界の存在を基盤にして成り立っている人生哲学がスピリチュアリズムでしょう?
「死後の世界が在るか無いかは本当はどうでもいいのです」みたいなこというスピリチュアリストも何人か見てきましたけどね
「在るか無いか判らない」じゃ弱いんです。
死後の世界と魂の存在を拠り所にした人生観を持とうと思ったら、やっぱりその前提が確かなものでないと
誰か霊が存在する証拠を示してくれる人いませんかね
もっとも、元々存在しないのなら証拠の示しようもないですけど…
なにやら関連する記事を書いて下さるそうなんで、全っ然期待しないで待ってます(笑
気が変わりやすい黒斎さんのこと、この程度の口約束はあまりアテに………(´~`;)
僕もそうですが「下らないところ」にこだわる人の殆どは、単なる興味本位じゃないですよ
スピリチュアリズムをより確信するためです
だから「守護霊と交信できるんなら、霊にしか判り得ないようなことを話してくれれば、一発で信用出来るのにな~」とか思っちゃうわけです
まあそんなこと出来なくても、「下らないところ」にこだわることの馬鹿馬鹿しさを納得のいく形で説明していただけたら幸いです
*****
気持ちはわかるんです。なんとなく。
でも…ね…
やっぱり「下らない」というより、なんといいますか…。「ずれてる」んですよ。
>魂と死後の世界の存在を基盤にして成り立っている人生哲学がスピリチュアリズムでしょう?
スピリチュアリズムの定義を「交霊術」とお考えなのであれば、当然「魂と死後の世界の存在」がベースになければ成り立ちませんが、「精神主義」や「人生哲学」と定義するならば、話は全く違います。
>「死後の世界が在るか無いかは本当はどうでもいいのです」
>みたいなこというスピリチュアリストも何人か見てきましたけどね
実にまっとうじゃないですか。それこそ本当の「スピリチュアル(精神主義・人生哲学)」だと思いますよ。
>「在るか無いか判らない」じゃ弱いんです。
問題はそこじゃないんです。
>死後の世界と魂の存在を拠り所にした人生観を持とうと思ったら…
なぜそんな所を人生観の拠り所にするの?
…というお話を説明したくて、前回こんな例文を挙げてみました。
Q.自動車は、安全な乗り物ですか?
この質問に「YESかNOで答えてください。」と詰め寄られても、答えられません。
その理由は前回ご説明したとおり、問いの立て方自体に問題があるからです。
それなのに、
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「この答えがハッキリするまで、自動車教習所には行きません!」
なんて人がいたとしたら、いつまで経っても免許を取得することはできません。
自分が免許を取得するかどうかに、自動車が安全な乗り物か否かは関係ないんです。
そこに「正確に」問いを立てるのであれば、「自動車は安全か?」ではなく、その前段階、「自動車とは何か?」と問うべきなんです。
「自動車とは何か」を理解したからこそ、「こう扱えば安全」「こういう使い方は危険」となっていく。
『死後の世界の有無』も、これと同じことなんです。
「答えろ」と言われても答えられません。それは「わからないから」でも、「教えたくないから」でもなく、答えようのない変な質問をされているからです。
これも、正確に問いを立てるとすれば、「死後とは何か?」が本来あるべき姿です。
そこを突き詰めていけば「死後以前に、死とは何か?」となります。
「死」を考えるためには「“死後”に対する“死前”、つまり生とは何か?」を考えざるを得ません。
そこからさらに進んでいくと、「…とすれば、どう生きるべきか」になるんです。
だからほら、結局問題は「どう生きるか」であって、「死後の世界の有無は関係ない。どうでもいい。」に行き着きます。
この問いが「魂」や「霊魂」、「神」になっても同じことです。
それの「有る無し」ではなく、その前に、「魂って何?」「霊魂って何?」「神って何?」が問われるべきなんです。
そもそもそれが何なのかが明確でないのだから、「有る無し」すら問えないんです。
…って、伝わってますかね?

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死後の世界
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さて、今日からは、お釈迦様シリーズのお話を補足する展開で進行していこうと思っております。
話のベースが「お釈迦様シリーズの補足説明」なので、どうしても「仏教」という印象が強くなりそうですが、他の宗教や精神世界全般のあれこれと「表現の仕方は違えど、言ってることは結局同じ」ということになりますので、そこら辺を考慮のうえ、ご覧頂きたいと思います。
と、いうわけで、新テーマは、ヘンゼルとグレーテルさんのリクエストにお応えしまして、ズバリ、『死後の世界』です。
◎人間は死んだらどうなるの?
◎死後の世界は、あるの?ないの?
◎「前世」や「来世」は、そもそも「魂」というものは、あるの?ないの?
いろんな人が、いろんなこと言ってるけど、ホントの所はどうなのさ!って…
ねぇ。速球ストレートど真ん中なテーマでございましょ?
この疑問、当然2500年前にもありました。
教典にもお釈迦様がこの内容を聞かれるエピソードがありましてね、阿含経の『十無記(十四無記)』に残されています。
マールンクヤプッタというブッダのお弟子さんが、ある日こんな疑問を持ってしまいました。
◎人間は死んだらどうなるの?
◎死後の世界は、あるの?ないの?
◎「前世」や「来世」は、そもそも「魂」というものは、あるの?ないの?
この他に「世界は無限か有限か。」とか「肉体と霊魂は同一か、それとも別か」とか…
あれやこれやと色んな疑問が湧いてきます。
(`⌒´)ノ 「よし、わからないからブッダに聞いてみよう。ブッダが本当のブッダ(真理を得た人)であれば、同然全てのことを知っているはず。答えられないはずがない。」
ということで、マールンクヤプッタさん、早速ブッダに聞いてみました。
でも、ブッダはこの質問に答えてくれなかったんです。
で…
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「なんだよ!こんな大事な質問に答えられないなんて!ブッダは本当に悟ってるのか?自分では“全てを知っている”とか言ってるけど、嘘なんじゃねーの?ペテン師を師匠にするなんて事はしたくないからさ、この質問にきっちり答えてくれるまで、俺、修行ボイコットするから。」
( ̄д ̄ ) 『そうですかぁ。それは困りましたね。』
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「別に困ることじゃないでしょう。答えてくれればそれでいいんです。ねぇ、どうなんですか?死後の世界はあるんですか?ないんですか?」
( ̄д ̄ ) 『あるでもなく。ないでもなく。』
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「そんな曖昧な答えはいりません!ハッキリ答えてください!」
…というお話なんですけどね。これ、やっぱり「通約不可能性」のお話なんです。
まずは先に挙げた疑問の数々。
◎人間は死んだらどうなるの?
◎死後の世界は、あるの?ないの?
◎「前世」や「来世」は、そもそも「魂」というものは、あるの?ないの?
とてもまっとうな疑問のように見えるのですが、この話を理解するためには、「その疑問の持ち方自体が、そもそも間違い」という所からご説明しなければなりません。
上の質問、仮にマールンクヤプッタさん以外の人がお釈迦様に聞いたとしたら、お釈迦様はなんて答えると思います?
それはね、やっぱり
( ̄д ̄ ) 『答えられません。』
なんです。
でも…
(;゜ д゜)エェッ!? 「まさかまさか!お釈迦様に答えられない事があったなんて!」
なんて思うのは早とちりです。
これは、そういう意味の「答えられない」ではないんです。
「わからないから答えられない」でも「説明が難しいから答えられない」でも「答えたくない」でもないんです。
「質問そのものがナンセンスだから、答えようがない」というのが正解。
質問がナンセンスだから答えられない。
これ、身近なところで一例を出してみたいと思います。
Q.自動車は、安全な乗り物ですか?
うん。一見、とてもまともな質問に見えますよね。
でも、やっぱりナンセンスなんです。
「自動車は、安全な乗り物ですか?」と聞かれても、「安全です」とは言い切れない。死亡事故だって毎日のようにあるし。
かといって「危険です」とも断言できない。「危険」だとしたら、何だってわざわざ危険なものに乗らなきゃいけないのさってなっちゃうし。
だから、「安全ですか?」と聞かれても、正確に答えようとすると「答えられません」「どちらとも言い切れません」ってなりますよね?
つまり、そもそも答えようがない事を質問している、という事なんです。
今回はこの辺で。続きは後日。
←曖昧な態度はいりません。シッカリ押してください。
********************************************
引き続き、「Reader's Choice」でのコメント大募集中!
ご協力のほど、よろしくお願いいたします!
*****
さて、今日からは、お釈迦様シリーズのお話を補足する展開で進行していこうと思っております。
話のベースが「お釈迦様シリーズの補足説明」なので、どうしても「仏教」という印象が強くなりそうですが、他の宗教や精神世界全般のあれこれと「表現の仕方は違えど、言ってることは結局同じ」ということになりますので、そこら辺を考慮のうえ、ご覧頂きたいと思います。
と、いうわけで、新テーマは、ヘンゼルとグレーテルさんのリクエストにお応えしまして、ズバリ、『死後の世界』です。
◎人間は死んだらどうなるの?
◎死後の世界は、あるの?ないの?
◎「前世」や「来世」は、そもそも「魂」というものは、あるの?ないの?
いろんな人が、いろんなこと言ってるけど、ホントの所はどうなのさ!って…
ねぇ。速球ストレートど真ん中なテーマでございましょ?
この疑問、当然2500年前にもありました。
教典にもお釈迦様がこの内容を聞かれるエピソードがありましてね、阿含経の『十無記(十四無記)』に残されています。
マールンクヤプッタというブッダのお弟子さんが、ある日こんな疑問を持ってしまいました。
◎人間は死んだらどうなるの?
◎死後の世界は、あるの?ないの?
◎「前世」や「来世」は、そもそも「魂」というものは、あるの?ないの?
この他に「世界は無限か有限か。」とか「肉体と霊魂は同一か、それとも別か」とか…
あれやこれやと色んな疑問が湧いてきます。
(`⌒´)ノ 「よし、わからないからブッダに聞いてみよう。ブッダが本当のブッダ(真理を得た人)であれば、同然全てのことを知っているはず。答えられないはずがない。」
ということで、マールンクヤプッタさん、早速ブッダに聞いてみました。
でも、ブッダはこの質問に答えてくれなかったんです。
で…
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「なんだよ!こんな大事な質問に答えられないなんて!ブッダは本当に悟ってるのか?自分では“全てを知っている”とか言ってるけど、嘘なんじゃねーの?ペテン師を師匠にするなんて事はしたくないからさ、この質問にきっちり答えてくれるまで、俺、修行ボイコットするから。」
( ̄д ̄ ) 『そうですかぁ。それは困りましたね。』
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「別に困ることじゃないでしょう。答えてくれればそれでいいんです。ねぇ、どうなんですか?死後の世界はあるんですか?ないんですか?」
( ̄д ̄ ) 『あるでもなく。ないでもなく。』
ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「そんな曖昧な答えはいりません!ハッキリ答えてください!」
…というお話なんですけどね。これ、やっぱり「通約不可能性」のお話なんです。
まずは先に挙げた疑問の数々。
◎人間は死んだらどうなるの?
◎死後の世界は、あるの?ないの?
◎「前世」や「来世」は、そもそも「魂」というものは、あるの?ないの?
とてもまっとうな疑問のように見えるのですが、この話を理解するためには、「その疑問の持ち方自体が、そもそも間違い」という所からご説明しなければなりません。
上の質問、仮にマールンクヤプッタさん以外の人がお釈迦様に聞いたとしたら、お釈迦様はなんて答えると思います?
それはね、やっぱり
( ̄д ̄ ) 『答えられません。』
なんです。
でも…
(;゜ д゜)エェッ!? 「まさかまさか!お釈迦様に答えられない事があったなんて!」
なんて思うのは早とちりです。
これは、そういう意味の「答えられない」ではないんです。
「わからないから答えられない」でも「説明が難しいから答えられない」でも「答えたくない」でもないんです。
「質問そのものがナンセンスだから、答えようがない」というのが正解。
質問がナンセンスだから答えられない。
これ、身近なところで一例を出してみたいと思います。
Q.自動車は、安全な乗り物ですか?
うん。一見、とてもまともな質問に見えますよね。
でも、やっぱりナンセンスなんです。
「自動車は、安全な乗り物ですか?」と聞かれても、「安全です」とは言い切れない。死亡事故だって毎日のようにあるし。
かといって「危険です」とも断言できない。「危険」だとしたら、何だってわざわざ危険なものに乗らなきゃいけないのさってなっちゃうし。
だから、「安全ですか?」と聞かれても、正確に答えようとすると「答えられません」「どちらとも言い切れません」ってなりますよね?
つまり、そもそも答えようがない事を質問している、という事なんです。
今回はこの辺で。続きは後日。

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破戒
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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さて、数ヶ月にわたって仏教を中心としたお話をさせていただきました。
いかがでしたか?
多分、皆さんがこれまで漠然と抱いていた仏教のイメージとは、だいぶ違うモノだったと思います。
ご覧頂いたとおり、本来の仏教の姿は、「信仰(神仏などを信じてあがめること)」の対象ではありません。
「宗教」というカテゴリーに入ってはいるけど、「神様を信じなさい」という話ではないんですよ。
神様の代わりに、「お釈迦様を信じなさい」という話でもないんです。
むしろ、神秘的なことに気を取られてないで、きちんと現実を見ましょう。ホントの事が知りたいのなら、何かを妄信するのではなく、ちゃんと目を覚まして自分自身で確認してごらんなさい、という話です。
もっと厳しく『奇跡なんて信じるのはおやめなさい。そんなもの、ありゃしないんだから。』とも言っています。
一言でまとめると、『しゃんとせい。(目を覚ませ・あり方を正せ)』と、それだけなんですね。
お釈迦様の話って、本来はそういうモノなんです。
ですから、お釈迦様は、何かを戒め(注意)はしても、規則やルールを強制するようなことはしていません。
単に、『「あり方」が正しければ、必然的にきちんとした姿勢、行動になっていくでしょ?しゃきっとなるでしょ?』と言っているだけ。
とはいえ、そんなお釈迦様でも、弟子達にお願いしたルールがあります。
このルール、実はイエス・キリストも同じ事を弟子達にお願いしていました。
なんだと思います?
それは…
『私の話を「マニュアル」にしないでください。』
というルールです。
『私がお話ししているのは「あり方」です。それを「やり方」にしてしまうような過ちは、決してしないでください。』
お釈迦様もイエス・キリストも、弟子達に、そう注意していたのです。
それなのに、あぁ、それなのに…
ねじ曲がってしまった宗教は(教えの本当の意味を理解出来なかった弟子達は)、まんまとマニュアルづくりに嵌っちゃったわけです。
僕らの身近にある「日本仏教」の大半も、お釈迦様が「してくれるな」と言っていたことを平然とやってしまっているわけです。(こういうこと言うと、色んな方から反感を買ってしまうのが現状ですが…)
仏壇がどうのこうのとか、線香は何本立てろだとか、いや、立てずに寝せなさいとか、これを唱えましょうとか、御札や短冊がどうのこうのとか、戒名がどうしたこうしたとか…(あ、勘違いしないでくださいよ。僕はご先祖様に対して、ぞんざいな態度で構わないという話をしているわけではないですからね。)
それぞれの宗教・宗派が、説いている「ルール」が違うからと言って断絶を起こしている。
そんな「How to」を説く宗教の、どこに「真理」があると言うんですか。
「仏教」は読んで字の如く、「仏(ブッダ)の教え」なんですよ。
考えてもみてください。
お釈迦様のいた2500年前には、仏壇も線香も御札も短冊も戒名も無いんです。
つまり、それらの話は後から誰かが後付けで勝手に作った話なんですよ。
それをね、大半の人が「仏教(ブッダの教え)」ですと、そう勘違いしているんです。ね、明らかにおかしいでしょ?
ましてや、本来「生きる」ことを説いている教えなのに、誰かが死んだ時にしか目を向けない。
なので、日本人になじみのある仏教と初期仏教では、おなじ「仏教」でも、だいぶ中身が違います。
勿論どちらも「仏教」ですから、大本は同じです。
立派なお坊さんもいらっしゃいます。
なのですが、伝来仏教は、やっぱりどうでもいい余計なモノが沢山付いてきているのも事実です。
そして、本当に大切なことより、どうでもいい余計なモノがクローズアップされがちなのも事実です。
その現象は、信者が「あり方」に目を向けず、「やり方」を求めてきた結果でもあるのですが…
仏教にせよ、キリスト教にせよ、他の宗教にせよ、そこに「やり方」を求めると、大失敗します。
また、「やり方」を語るあれこれに気を取られてると、それはそれで失敗しやすいです。
その宗教が説かれているあらゆるモノを、「あり方」という観点で捉えてみてください。
本当に信頼できる教えは、そこを明確にしないと、本当の意味が理解できません。
どんな宗教に属すのであれ、属さないのであれ、自分の「あり方」を無視し、「何をすれば幸せになれますか?」と、安易に「やり方」を求めるのはやめましょう。
その態度こそが、本当の破戒(戒律を破ること)です。
←「何をすれば押してくれますか?」と、安易に「クリック」を求めるのはやめましょう。(自爆)
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さて、数ヶ月にわたって仏教を中心としたお話をさせていただきました。
いかがでしたか?
多分、皆さんがこれまで漠然と抱いていた仏教のイメージとは、だいぶ違うモノだったと思います。
ご覧頂いたとおり、本来の仏教の姿は、「信仰(神仏などを信じてあがめること)」の対象ではありません。
「宗教」というカテゴリーに入ってはいるけど、「神様を信じなさい」という話ではないんですよ。
神様の代わりに、「お釈迦様を信じなさい」という話でもないんです。
むしろ、神秘的なことに気を取られてないで、きちんと現実を見ましょう。ホントの事が知りたいのなら、何かを妄信するのではなく、ちゃんと目を覚まして自分自身で確認してごらんなさい、という話です。
もっと厳しく『奇跡なんて信じるのはおやめなさい。そんなもの、ありゃしないんだから。』とも言っています。
一言でまとめると、『しゃんとせい。(目を覚ませ・あり方を正せ)』と、それだけなんですね。
お釈迦様の話って、本来はそういうモノなんです。
ですから、お釈迦様は、何かを戒め(注意)はしても、規則やルールを強制するようなことはしていません。
単に、『「あり方」が正しければ、必然的にきちんとした姿勢、行動になっていくでしょ?しゃきっとなるでしょ?』と言っているだけ。
とはいえ、そんなお釈迦様でも、弟子達にお願いしたルールがあります。
このルール、実はイエス・キリストも同じ事を弟子達にお願いしていました。
なんだと思います?
それは…
『私の話を「マニュアル」にしないでください。』
というルールです。
『私がお話ししているのは「あり方」です。それを「やり方」にしてしまうような過ちは、決してしないでください。』
お釈迦様もイエス・キリストも、弟子達に、そう注意していたのです。
それなのに、あぁ、それなのに…
ねじ曲がってしまった宗教は(教えの本当の意味を理解出来なかった弟子達は)、まんまとマニュアルづくりに嵌っちゃったわけです。
僕らの身近にある「日本仏教」の大半も、お釈迦様が「してくれるな」と言っていたことを平然とやってしまっているわけです。(こういうこと言うと、色んな方から反感を買ってしまうのが現状ですが…)
仏壇がどうのこうのとか、線香は何本立てろだとか、いや、立てずに寝せなさいとか、これを唱えましょうとか、御札や短冊がどうのこうのとか、戒名がどうしたこうしたとか…(あ、勘違いしないでくださいよ。僕はご先祖様に対して、ぞんざいな態度で構わないという話をしているわけではないですからね。)
それぞれの宗教・宗派が、説いている「ルール」が違うからと言って断絶を起こしている。
そんな「How to」を説く宗教の、どこに「真理」があると言うんですか。
「仏教」は読んで字の如く、「仏(ブッダ)の教え」なんですよ。
考えてもみてください。
お釈迦様のいた2500年前には、仏壇も線香も御札も短冊も戒名も無いんです。
つまり、それらの話は後から誰かが後付けで勝手に作った話なんですよ。
それをね、大半の人が「仏教(ブッダの教え)」ですと、そう勘違いしているんです。ね、明らかにおかしいでしょ?
ましてや、本来「生きる」ことを説いている教えなのに、誰かが死んだ時にしか目を向けない。
なので、日本人になじみのある仏教と初期仏教では、おなじ「仏教」でも、だいぶ中身が違います。
勿論どちらも「仏教」ですから、大本は同じです。
立派なお坊さんもいらっしゃいます。
なのですが、伝来仏教は、やっぱりどうでもいい余計なモノが沢山付いてきているのも事実です。
そして、本当に大切なことより、どうでもいい余計なモノがクローズアップされがちなのも事実です。
その現象は、信者が「あり方」に目を向けず、「やり方」を求めてきた結果でもあるのですが…
仏教にせよ、キリスト教にせよ、他の宗教にせよ、そこに「やり方」を求めると、大失敗します。
また、「やり方」を語るあれこれに気を取られてると、それはそれで失敗しやすいです。
その宗教が説かれているあらゆるモノを、「あり方」という観点で捉えてみてください。
本当に信頼できる教えは、そこを明確にしないと、本当の意味が理解できません。
どんな宗教に属すのであれ、属さないのであれ、自分の「あり方」を無視し、「何をすれば幸せになれますか?」と、安易に「やり方」を求めるのはやめましょう。
その態度こそが、本当の破戒(戒律を破ること)です。

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