↑ 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに
結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ3:26)
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第5主日 2023年5月7日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 6(つくりぬしを賛美します)
交読詩編 119:9-16(どのようにして、若者は)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) ガラテヤ書3章23節~4章7節(新p.346)
説 教 「イエス・キリストに結ばれた神の子」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 289(みどりもふかき)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019
(辺見牧師)に、申し込み下さい。
次週礼拝 5月14日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ルカによる福音書7章1~10節
説教題 「信仰に報いる主」
讃美歌(21)355 402 27 交読詩編 34
本日の聖書 ガラテヤ書3章23節~4章7節
3:23信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。 3:26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 3:27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 3:28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 3:29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。 4:1つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、 4:2父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。 4:3同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。 4:4しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 4:5それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 4:6あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 4:7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
本日の説教
これまでパウロは容赦なく律法の不十分さをあばいてきました。パウロは、3章23節から29節までで、キリストが世に来られる以前、律法の下にいた人類の状態とキリストが世に来られた以後律法から解放された私たちの状態を比較して説明します。
キリストに対する信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、律法の下に閉じ込められていたが、それはやがて示される信仰が与えられるためでした(3:23)。律法は、私たちをキリストへ導くための養育係と言えます。それは、私たちが「信仰によって義とされるため」です(3:24)。
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません(3:25)。私たちは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです(3:26)。洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちは皆、キリストを着ているからです(3:27)。
洗礼は、私たちが信仰によりキリストと一つにされた霊的現実を外的に表現する儀式です。この洗礼によってキリストと一つにされた者の集まりが教会です。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(3:28)。クリスチャンはみな、一人の人(キリスト)と一つにされています。すべてのクリスチャンは一人のキリストのからだの一部なのです。
私たちが、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、キリストと同じようにアブラハムの子孫であり、神の民であり、神の約束による相続人です(3:29)。
4章1-7節は、3章23節から続く「今や、奴隷ではなく神の子である」という、イエス・キリストの到来によってもたらされた変化、奴隷から神の子への転換を語ってきたが、同じテーマを4章1-7節では未成年の相続人の扱いに関する当時の習慣を手がかりにして展開しています。
パウロは、すべて信仰によるアブラハムの子孫は、神の祝福を相続できる神の子供であったが、実際にはキリストの来られる時まで神の約束された本来の祝福(義認、聖霊、永遠のいのち等)をうけられずにいたことを明らかにします。
相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であってもその家の奴隷と何ら変わるところがなく、 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいて、財産を得ていません(4:1-2)。
私たち、クリスチャンもそれと同じように、「未成年であったとき」は、「信仰が現れる前」(3:23)、つまりキリスト以前には、「わたしたちも世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(4:3)。パウロは諸霊(ストイケイア)を、人間を隷属状態におく支配勢力と考えており、「律法」、「神でない神々」と密接に結びついています。迷信的な考え方、偶像礼拝的信仰という限られた意味だけでなく、人間がその支配に隷属するほかないような悪霊的勢力が考えられています。
しかし、この悪霊の支配から人類を解放する、父なる神の定めの時が満ちて来ると、神は、その御子キリストを女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました(4:4)。
それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした(4:5)。もう一つは、「わたしたちを神の子とするため」でした。わたしたちが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります(4:6)。「アッバ」は家庭で父親を呼ぶ庶民的アラム語です。初代の教会はこの「アッバ」を用いて祈りをしたのです。
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、諸霊や律法から解放されて、すでに「神の子」です。神の子であれば、未成年ではなく、神によって立てられた成人した相続人でもあるのです(4:7)、と結んでいます。だからクリスチャンは今、神の祝福を受け、義と認められ、神の子供とされ、聖霊を与えられ、永遠のいのちを受けることが出来るのです。このような神の子とされている自覚をもって、神の子らしく感謝して共に生きましょう。
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