富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰に報いる主イエス」ルカによる福音書7章1~10節

2023-05-13 13:52:06 | キリスト教

  ↑ 「イエスと百卒長」(並列記事、マタイ8章5-13による絵画)

パオロ・ヴェロネーゼ 1571年頃、キャンバスに油彩、192 x 297 cプラド美術館、マドリード(スペイン)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第6主日 2023年5月14日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ わが心)

交読詩編     34(どのようときも、わたしは主をたたえ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  ルカによる福音書7章1~10節(新p.114)

説  教     「信仰に報いる主イエス」 辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、  申し込み下さい。

        次週礼拝 5月21日(日)  午後5時~5時50分

        聖 書 マタイによる福音書28章16~20節

        説教題  「キリストの昇天」 

        讃美歌(21) 287 72 336 27 交読詩編 105:12-24  

本日の聖書 ルカによる福音書7章1~10節

 7:1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

 本日の説教

「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」(7:1)

 イエスは、祈るために山に行き、朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けました(ルカ6:12-13)。イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになりました。大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていました。イエスは目を上げ弟子たちを見て言われました。ルカ6章20節から始まるイエスの教えは、6章49節までと続きます。これを、マタイの「山上の説教」に対して、ルカの場合は「平地の説教」と呼んでいます。

 「これらの言葉」とは、「平地の説教」のことで、このあとガリラヤ湖の北岸の町カファルナウムに、イエスは入られました。(7:)

 「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(7:2)

 「百人隊長[百卒長]」には、百人の部下がいます。おそらく彼は、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスか、ユダヤの総督である、ポンティオ・ピラトに仕える隊長と思われます。この百人隊長は、5節の言葉からも異邦人であることは明らかです。この百人隊長は、身分の高い人物です。彼は自分の僕(部下)が重い病気で死にかかっているのを心配しました。

 「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。」(7:3)

イエスのことを聞いた百人隊長は、イエスが神の権威を持った方であり、彼の僕を治せるということを、確固とした信仰によって信じたのです。<ユダヤ人の長老たち>は、ユダヤ教の共同体の指導者たちです。異邦人の百人隊長は、彼らをイエスのもとに使いにやって、病気の部下を助けに来てくださるように頼みました。

 「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」(7:4-5)

   長老たちは、イエスのもとに来て熱心に願いました。百人隊長はイエス様に願いをかなえてもらうのにふさわしい人です。彼はユダヤ人を愛しており、自らユダヤ人のためにユダヤ教の会堂を建ててくれたのです、と報告しました。

  「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」(7:6)

 「そこで」とありますが、「願いをかなえて」やるにふさわしい人物だから、出かけられのではありません。ただ異邦人の病気の部下を癒してやりたいために出かけられたのです。イエス様は平地の説教の中で、「いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも情け深い」(6:35)と言われています。イエスは長老たちと出かけられました。ところが、その百人隊長の家からそれほど遠くない所まで来たとき、百人隊長は、おそらくは異邦人である友達を使いにやって言わせました。「主よ、家まで足をお運びになる必要はありません。わたしはあなたを自分の家にお迎えできるような価値ある人物ではありません。」と使いの友人に言わせました。異邦人である自分の家にユダヤ人である神の権威を持つイエス様を迎え入れて汚れを与えることをおそれたのです。イエス様を迎えるにふさわしい価値ある人間ではないという、まことに謙遜な謙虚な言葉です。

 「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(7:7)

 「それで、わたしの方から伺うのさえふさわしくないと思い、使いの者に頼みました。一言癒しのことばを言ってください。そして、わたしの部下を癒してください。」長老たちはイエスに異邦人の隊長のことをお願いするとき、会堂を建ててくれたとか、ユダヤ人を愛してくれているとか、願いをかなえてくださるに相応しい方だと言って、イエスを動かそうとしました。イエスは何も言われずに隊長の家に向いました。しかし、百人隊長は、少しも自分のしたことなどを語っていません。ただイエスの前に神の憐れみを懇願しています。彼は、イエスの言葉には神としての力があると信じているのです。彼の頼みは、自分のためではなく、部下のためなのです。

 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(7:8)

 この<わたしも>は、「イエス自身も父な神の権威の下にあるが、わたしも上官の権威の下に置かれている。自分に与えられている権威によって、わたしも部下に対して命令できるように」ということです。わたしの下にいる兵隊の一人に「行け」と言えば彼は行き、「来い」と言えが彼は来ます。また部下に「これをしろ」と言えば、彼はそのとおりにします。」彼は軍隊の百人隊長に与えられている権威の下に、命  令する力を知っていたのです。百人隊長の言葉は、イエスの「元気になれ」という言葉の力を信じたのです。

 「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(7:9)

 イエスはこれを聞いて、信仰の民イスラエルには見られないような信仰に感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚き褒められました。

 「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」(7:10)

 百人隊長はイエスに使者を通して頼むだけであり、百人隊長自らがイエスの前に現れることもなく、使者たちが隊長の家に戻ると、死にかかっていた病人は元気になり、癒されていました。癒された部下は自分の信仰によってではなく、隊長の信仰により、主イエスの言葉によって癒されました。とりなしの祈りと願いによって、部下は癒されたのです。

   この癒しは、平地の説教をするイエスの言葉の権威を具体的に表すだけでなく、貧しい人たち(ルカ6:20-21)に対する神の国が現実になっていることを示しています。しかもその貧しい人はここでは異邦人の病人でした。主イエスによってもたらされた神の国は異邦人の世界にまで及んでいくのです。

  聖霊降臨後、 宣教による福音を異邦人の世界にもたらす時がきます。この百人隊長の驚くべき信仰は、使徒言行録におけるコルネリウスという百人隊長の改心の先がけとなっています。両方とも、信仰心あつく、神を畏れる(使徒言行録10:1)だけでなく、異邦人なのにユダヤ人のために会堂を建て、コルネリウスは<ユダヤの民に多くの施しを>します。コルネリウスもペトロのもとへ使者を遣わしています。シモン・ペトロは異邦人の家に行くことを迷いつつ、聖霊によって後押しされて、百人隊長の家に入り、教え、洗礼を授け、異邦人と共にパンを裂くのです。ルカによる福音書のキリストの言葉による隊長の僕の癒しは、使徒言行録10章の物語では、ペトロに使徒としての権威を与えたのです。

  並列記事は、マタイ8章5-13にありますが、マタイの方では、百人隊長が自らイエスのもとに来て頼んでいます。マルコによる福音書7章10節には、シリア・フェニキアの女(異邦人)の強い信仰によって彼女の娘がイエスのもとに連れて来られなくとも、イエスの言葉によって治った奇跡が記されています。

  百人隊長はイエスに会いに来ませんでした。しかし百人隊長のイエスに対する信仰の報いとして彼の部下が癒されたのです。この物語の百人隊長は、やがて来るべき全ての信仰者を先取りした存在として重要です。現代のわたしたちは、イエスを見てはいないが、イエスの言葉は生きて働く力をもつのだと信じています。主は、百人隊長のような驚くべき信仰を私たちにも求めておられるのです。主を呼び求め、主を迎え入れるにはふさわしくない汚れた心に、主がお住まいくださるということは、なんとすばらしい、ありがたいことでしょう。主をほめたたえましょう。

 

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