富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの昇天」マタイによる福音書28章16~20節

2023-05-20 23:59:47 | キリスト教

  ↑ シモン・チェコヴィチ(ポーランドの画家)の「キリストと弟子」(マタイ28:7)                1758年の作

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第7主日 2023年5月21(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 287(ナザレの村里)

交読詩編    103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  マタイによる福音書28章16~20節(新p.60)

説  教       「キリストの昇天」  辺見宗邦牧師                                          

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 337(たたえよ、この日)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

         次週礼拝 5月28日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書 使徒言行録2章1~11節

         説教題  「聖霊の賜物」 

         讃美歌(21)342 343 27 交読詩編 146   

本日の聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

本日の説教

 復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面は、マタイ福音書とヨハネ福音書にはなく、マルコ福音書では、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)と記しているだけです。

 よりくわしく記しているのがルカによる福音書24:50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1:9です。使徒言行録1:3は、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記しています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めています。今年の教会暦では、5月18日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。その次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2:1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。

 昇天した場所については、ルカは、「イエスは、そこから彼らをベタニヤの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏して拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24:50-53)と記しています。

 ルカは、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所も都エルサレム地域に限定しています(ルカ24:49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。

  

 7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天のチャペルとが建っています。

  ロシア正教会の昇天の塔と、手前が昇天のチャペル(主イエスの昇天記念堂)。

 オリーブ山の頂上には紀元4世紀に、イエスが昇天されたときの足跡が残っている岩を覆うように1870年代に建てられた高い塔とロシア正教のチャペルがあります。

 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28:16、17)

   イエスの葬られた墓を詣でた女たちは、天使から、復活したイエスは弟子たちとガリラヤで会うと弟子たちに告げました。この言葉を受けて弟子たちはガリラヤの指定させた山に行き、そこで復活したイエスに会いました。<十一人の弟子>とは、ユダが死んだので(マタイ27:5)、十二人の弟子の一人が欠けたことになっています。<ガリラヤ>は、マタイ4:15では、ガリラヤから広く異邦世界への福音伝道が展開すると語られ、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始めたのもガリラヤの地です。マタイは、復活したイエスが弟子たちに会われる所を、ガリラヤの山としています。山は神が顕現する場所です。十一人の弟子たちが、復活したイエスに会うように指示されたガリラヤの山は、山上の説教がなされた山と推定されていますが確証はありません。

   弟子たちはイエスに会い、<ひれ伏し>て礼拝しつつも、疑った者もいました。マタイにはイエスが復活した体を示すことによって弟子たちの疑いを取り去った記事はありません。弟子たちがイエスを本当に信じることができたのは、ペンテコステの日に聖霊が注がれて以降のことです。

   「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」(マタイ28:18~20)

 イエスは疑う弟子たちに近寄ってきて、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という言葉は、マタイ福音書の中でも最も重要な言葉となっています。イエスは以前に、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(マタイ11:27)と言われたことがあります。ここでは<天と地の一切の権能を授かっている>と宣言しています。復活によって主イエスは天地を支配する主となったのです。

 メシアとしてのイエスは、死と復活を通して詩編110:1に預言されているように「神の右の座」に上げられたのです。「わが主に賜った主の御言葉。 『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」(詩篇110:1)こうして現在はイエスが天地を支配する時となりました。しかし、それは決して、主イエスが、世界の人間の生活のあらゆる面において、直接に主となることではありません。主イエスが、十字架と復活によって、罪に勝ち、死を滅ぼしたことにより、神の支配が始まっているということです。

 イエスのもとへ行った弟子たちは、このイエスのもとから出発して全世界へ宣教するよう命じられました。この宣教命令の目標とするところは、「すべての民」であり、「すべての異邦人」です。生前のイエスの時代には、福音はイスラエルの民に限られて語られましたが、イスラエルが福音を拒否した今、異邦人へ伝えられる時代になりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」の言葉で、弟子たちがイエスの働きの継承者となって、世界に福音を伝える使命を与えられたのです。

  マタイの宣教命令は、異邦人たちを「わたしの弟子にしなさい」という命令です。弟子とはイエスの教えを聞き、信じ、イエスを主と仰いで歩む人のことです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいと命じています。<父と子と聖霊>という三位一体の言葉は新約聖書中ここにしかありません(似たような言葉は、コリント二、13:13にもあります)。すでに、イエスの洗礼記事(マタイ3:16-17)で、神と子と聖霊の三つのことが語られています。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とは、三位一体の神の主権に服すと同時に、三位一体の神との交わりに入ることです。父と子と聖霊の中に浸され、御子が聖霊を与えるものとして働き、神自らがそこに働いて、救いを保証するのです。洗礼を受けることは、直ちに、キリストの体である教会につらなることであります。

  主イエスは、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じています。「命じておいたこと」とは、イエスが語られたすべての教えが含まれます。「守る」とは、それを実行することです。それは主によって生きることであり、主と共に生活することなのです。主が共におられなければ、主の教えによって歩むことはできません。 

  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:17)

ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は、「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあるように、イエスと弟子たちが離れてしまうことを語っています。ところがマタイではそれと対照的に、最後の言葉は、イエスがこれからも、いつも共にいることを約束しています。マタイによればイエスは常に信仰者と共にいるので、昇天という形で離れ去ることを語っていません。イエスがなおもインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」方であるということを思い起させます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この約束は、前後の言葉から、福音を伝える弟子たちに向けられていますが、伝道者だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあります。主イエスは、「世の終わりまで、いつも」教会と共におられるのです。「世の終わり」、それは単なる終末ではなく、地上における神の国の完成の時であり、救いの完成の時です。キリストは世の救いのために伝道する者と常に共にいてくださり、伝道する者の業を助けると約束されているのです。神の国は、すでにキリストがこの世に来られた時から、近づき、始まっています。

使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座についたことを告白しています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。

主の昇天は私たちに聖霊がつかわされるために必要なことでした(ヨハネ16:7)。聖霊により、父なる神と御子キリストがわたしたちのところに来て共に住んでくださるのです(ヨハネ14:23)。聖霊の力を受けて教会はこの世にあって宣教の使命を果していくのです。

主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8:34)」方です。私たちを罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たちの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16:23)。

キリストの昇天は、わたしたちのために住む場所を天に用意するためでした。私たちのために天への入口が開かれたのです。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。

キリストの昇天のとき、天を見つめていた弟子たちのそばに天の御使いが現れて、彼らにキリストが再びこの地上に来られることを約束しました(使徒1:10-11)。それは地上における神の国(神の支配)の完成であり、救いの完成を意味しています。主が共にいまし、共に働いてくださっていると言うことほど、力強いことはありません。主が共にいますことを信じて、自らの信仰生活と教会の成長のために共に励もうではありませんか。 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「信仰に報いる主イエス」ル... | トップ | 「聖霊の賜物」使徒言行録2... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事