↑ マザー・テレサからいただい手紙。「すべては御祈りすることから始まります。愛を神様に求めることがなければ、わたしたちは愛の心を持つことが出来ません。」と書いてあります。
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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」
聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
聖霊降臨節第15主日 2018年8月26日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)
交読詩編 62(わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳) Ⅰコリント12章27~13章13節(p.316)
説 教 「最高の道である愛」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 545(まことの神)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 9月2日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節
説教題 「生涯のささげもの」
讃美歌(21) 194 536 24 交読詩編119篇73~80節
本日の聖書 1コリント12章27~13章13節
12:27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者なのです。29皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。31あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。13:1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
本日の説教
コリント(現在名はコリントス)というギリシアの都市は、アテネ(現在はギリシアの首都)から西南約78キロにあるペロポネソス半島にある都市で、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面し、それぞれに港を持つ、通航の要衝であり、商業都市として重要でした。
紀元前46年にユリウス・カエサルによって、長い間廃墟になていた古代都市コリントは、ローマの植民地として再建され、ローマ領土アカイア州(北部を除いた現在のギリシ全土)の首都でした。この地は多種多様な人々が行き交う自由の空気の支配する文化的中心地でもありました。コリントはギリシャ最大の港町で、六十万人の人口を持つ大都市でした。
パウロがこの地を訪れたのは第二回宣教旅行の時で、紀元49年から51年にかけて一年六か月にわたり滞在し、宣教と教会形成にあたりました。パウロはコリントの教会から離れた後も、人づてに、あるいは手紙で多くの情報を得ていました。パウロが去った後も教会は成長し、活動的でした。しかし、もはや放置しておけないような問題がこの教会を襲いました。
それは、教会内部で起こった分争(1~4章)、道徳上の乱れや、教会内で起こった良くない噂、スキャンダルです(5~6章)、キリスト教徒の自由の誤った用い方(8~10章)、教会の集会における混乱(11~14章)、復活理解の正しくない理解(15章)など問題です。問題を引き起こしたのは、熱狂主義者たちで、彼らの主張は「自分たちは完全な者だ」とか「霊あるいは知識を所有している」とか「すべてのことは許されている」という信仰理解を持つ人たちでした。
おそらくこの手紙は、第三回宣教旅行中、約三年にわたって滞在したエフェソ(小アジア南西部、現在のトルコ)から、54年春頃に出されました。
有名な13章の「愛の賛歌」は、12章31節の「あなたがたは、もっと大きな賜物である愛を受けるように熱心に努めなさい」、という勧めと、14章1節の「愛を追い求めなさい、霊的賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」という勧めのことばとの間に置かれています。13章の愛の教えを
パウロが書いたのは、教会内で起こっている分裂や種々の問題の原因は、教会の信徒たちに最も大切な愛が欠けていたからです。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と言われました。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネ一、3:16)とあるように、パウロは主イエスの十字架と復活によって、私たちを救う神の愛、真実の愛を知りました。このキリストの愛をもって私たちが互いに愛し合うように、愛の教え・「愛の賛歌」を書き送ったのです。
12章では、教会の中における霊の賜物の意味が語られ、その多様な働きが示されます。12章27節で、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と述べます。教会をキリストの体にたとえ、教会の一人一人は、その一つの体を形づくる部分なので、神から与えられる霊の賜物(能力)や役割が違っても、上下、優劣の区別をしないで、協力するようと教えました。28節では、「神は、教会の中にいろいろな人をお立になりました」と語り、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者たちをあげています。けれども、そのような賜物よりも「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と、パウロは勧め、「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言って、13章以下の愛について教えるのです。これは、教会に属するすべての人が求めるべき愛なのです。
パウロは、「もし愛がなければ」、どんなすばらしいことを実現しても、その人の生涯は無益だ、と断言します。コリントの教会の人々が誇っていた霊の賜物も、愛がなければすべて無に等しいと断言するのです。愛が伴うことによって、すべての霊の賜物は正しく用いられるのです。
13章4~7節で、パウロは愛を擬人化して、愛がは何をし、何をしないかを詳細に述べて愛を讃えます。最初に挙げた愛の二つの徳目は、「忍耐強い」と「情け深い」ことです。この二つの愛の特色は神の属性です。に「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのか」(ローマ2:4)とあります。
<忍耐強い、情け深い>とは、人の言動に依って受けた害に対して、怒ることなく、あやまちを責めず、優しいおもいやりと好意的な態度で接し、相手が自分の悪いことに気づくことを根気よく待つという寛大さを意味しています。
ちょとしたささいなことが、愛が欠けているために、過大視されてゆるしにくいものになってしまうことがあります。このような場合は、神がキリストを通して私たちに示された深い愛を思うべきです。神の忍耐と慈愛は、神のさばきに価いする者に対して怒りをもってのぞむのを控え、満ちあふれる慈愛を注ぐのです。このキリストの忍耐と愛に満たされて、キリストの愛の心をもって、人々に接するのです。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても(不満をいだくことがあっても)、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。…愛を身につけなさい」(コロサイ3:13)とパウロは勧めています。神の赦しと愛を体験している者として、私たちはこの神の慈愛に応えて人々に情け深い者となりましょう。
<ねたみ>は、他人に対してどこまでも自己中心的な関心をよせます。<ねたみ>は、人の心の奥底に潜む最も醜い罪です。<ねたみ>は自分よりすぐれたり、恵まれたりしている者に対して、うらやみ、くやしがり、憎らしく感じます。人をうらやむねたみは、分裂と争いに引き起こしてしまいます。コリントの教会内で起きた党派争いの原因も「ねたみ」でした。<ねたみ>は他人を傷つけ、自分の霊性と人格を低下させます。
どのようにしたなら、ねたみに対して打ち勝つことができるのでしょう。神の愛、キリストの愛が、ねたみに打ち勝つのです。キリストの愛は自己放棄的な愛です。キリストは、御自身を捨てられてすべてを私たちのために与え尽くされました。私たちが、もしこの与え尽くす愛に満ちあふれているなら、ねたみは私たちの心に入る余地はありあせん。なぜなら、ねたみは自分よりすぐれたり、恵まれたりしている人からものを奪おうとする心が働くことに対して、愛は与えようとしては働くからです。愛は人をねたまないのです。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)というパウロのすすめを実践するなら、<ねたみ>の心は消えて行きます。「ねたみ」に打ち勝つのはキリストの愛であり、聖霊の働きによるのです。
<自慢しない>は、実際以上に自己を良く見せようとしないことをいいます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2:3)なさいと、パウロは勧めています。
<高ぶらない>は、自分よりも社会的位置の低い者に対して、差別し見下す態度をいいます。高慢は罪の根源であり罪の本質です。高慢(高ぶり)は、自我から生まれる心のおごりです。高慢が、ねたみと共に、コリントの教会の分裂の原因でした。
高慢に打ち勝つ道は、神の御前に罪を赦された者として、自分を低くすることです。そのとき、聖なる愛が心に満ち、高慢の心は、取り払われるのです。パウロは「罪人の頭である」という自覚を持っていました。
<礼を失せず>は、実際は恥ずべき行い、ふさわしくない振る舞いをしないことです。相手を重んじ、礼儀に反しない行動をすることです。
<自分の利益を求め>ないは、「自分の益ではなく多くの人の益を求め>(10:33)るということです。利己主義でないことです。パウロは「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(10:24)と勧めています。
<いらだち>は、感情的に激して怒りやすくなることです。自分の意に反するものの存在とか、中傷、悪口などによって感情が高ぶり、腹を立てて、興奮して気が荒くなることです。<いらだたない>は、急にかっとなって心の平安を失うようにならないことです。いらだちは短気の特徴です。人間の罪に対して主イエスは怒られましたが、個人的に悪口を言われたり、ののしられたりしたことに対しては怒られませんでした。
<恨みを抱く>とは、自分に加えられた損害を数え挙げて他人を恨むことです。<恨みを抱かない>とは、人の悪を心の中にとどめず、執念深く考えず、赦し忘れることです。
<不義を喜ばない>とは、神の正義を喜び、不義と邪悪を排してすべてのことに耐えぬく生き方です。主イエスの不正を喜ばない態度は、私たちの不義をあがなうために、身代わりとなって十字架の処刑を受けて死んで下さったことによって、最もよく表れています。
<愛は真実を喜ぶ>とありますが、<真実>は原語ではアレセイア(真理)と言う意味の語です。「真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」(ヨハネの手紙三、4)とあります。キリストの教えに従って、愛に歩むことが、真理に歩むことです。<愛は真実を喜ぶ>とは、愛を擬人化していますが、愛は私たちが愛に歩むこと、すなわち、真理に歩むことを喜ぶのです。
愛は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。徹底的に自分を捨て、他人のために生きる姿がえがかれています。ここにはキリストの示す愛がえがかれています。
さらにパウロは、愛の永続性を述べます。「愛は決して滅びない」。愛は永久に持続します。終末はまだ来ていないが、神が直接支配する終末には、預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れます。コリントの教会の一部の人々が自分たちを既に終末時の完成者とみなしていたのに対し、パウロはここで、終末はまだ来ていない、彼らの思い込みは間違いであると論争的に語っています。パウロは、特に預言を取り出して、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だからです、と言います。<完全なもの>が来たときには、部分的なものは廃れてしまうのは必然だと語ります。
コリントの教会の一部の人々のように、不完全なものを完全なものと思い込み、それを誇るようなことは、ことがらをはっきり分かっていない<幼児>なのだと批判します。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていたが、成人した今は、幼子のことを棄てたように、教会の現在の霊的賜物も終末には忘れられるのです。
最後に一つの類比がパウロの要点を強調します。霊的賜物によって与えらえる知識は、鏡に映っている像のように不明瞭です。神がモーセにしたように、神が<顔と顔とを合わせて>私たちと話す「時は来る」と断言します。神の国が完成する「その時」に、神が私たちを現在すでに完全に知っているのと同じように、私たちが完全に神を知ることになります。私たちは、「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ4:9)のです。
終末到来までの間、いつまでも存続し続けるのは信仰と希望と愛です。信仰は、神に向ける私たちの信頼です。私たちが、キリストによって救われ、神に愛されていることを信じるのです。希望は、罪に満ちたこの世が神によって正しい完全さで回復される神の国を望むことです。そして愛は、神との最終的な永遠の交わりです。恵みによって今私たちに与えられた兄弟姉妹たちとこの交わりを分かち合っています。
愛が三つの中で最も大いなるのは、啓示の賜物と違い、また信仰と希望とも違い、永久に持続するからです。信仰と希望は、神から与えられた人間の特質です。「神は愛です」(ヨハネ一、4:16)とあるように、愛は神の本質です。私たち、キリスト者の愛は「神から出るのです」(同4:7)。神が永遠に生きておられるので、愛も永遠に存続するのです。信仰、希望、愛、この三つの中で最も偉大なものは愛なのです。愛を上位におくことによって、パウロは愛がすべてのものの基礎にあること、<最高の道>であることを説いています。
今、キリストによって示された愛こそが私たちに必要であり、この愛を、この世も求めていることを知らなければなりません。この愛に欠けるために、多くの不幸な出来事が起こっているのです。私たちはキリストによって示された愛の足りないことを覚えて、愛を増し加えて下さいと祈りながら、キリストの愛に満たされて、世を救うキリストの愛の証し人とならなければなりません。
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