富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの僕として生きる」 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

2018-08-31 01:22:39 | キリスト教

    ↑  新共同訳新約聖書注解Ⅱの巻末地図(「アンキラ」は、現在のトルコの首都「アンカラ」です。)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     聖霊降臨節第16主日  2018年9月2日(日)  午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 194(神さまはそのひとり子を)

交読詩編  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(p.342)

説  教  「キリストの僕として生きる」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 9月9日(日) 午後5時~5時50分

              聖 書  2コリントの信徒への手紙9章6~15節

              説教題  「奉仕する共同体」

              讃美歌(21)  512 24 交読詩編119篇73~80節

  本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

1:1人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 2ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 3わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 5わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 7ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。 8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 9わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。 10こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

    本日の説教

 「ガラテヤの信徒」へ宛てて書かれた手紙は、使徒パウロが書いた手紙です。わずか六章からなる短いものですが、その内容はきわめて重要な手紙であり、パウロの四大書簡(ローマ、コリント一、二、ガラテヤ書)の一つに数えられています。この手紙の中心主題は、「信仰義認」-人は信仰によって神に義(正しい者)とされるのであって、行いによるのではない、という福音の根本真理を、特に律法主義者との対決において明らかにするのです。

「ガラテヤ」という地名は、ガラテヤ人が住み着いた地域、現在のトルコ共和国の内陸中央部にある首都アンカラを中心とする周辺一帯を指す北部地方と、ローマ帝国の植民地とされた地域、従来のガラテヤ人定住地(北部地方)にフリギヤ、ピシディア、リカオニアといった南部地方を合わせた広い地域を指す場合とがあります。

パウロが第一回の伝道旅行で訪れたのは、ピシディア州のアンティオキア(使徒言行録13:14)や、リカオニア州のイコニオン、リストラ、デルべの町々(同14:1~23)など、南部地方でした。パウロは第二回伝道旅行の際にも、デルベにもリストラにも行きました(16:1)。「ガラテヤの信徒への手紙」は、これらのローマ属州ガラテヤの南部地方の住民とする説が「南ガラテヤ説」です。この節によると、第一回伝道旅行後のエルサレム使徒会議(紀元48年頃)の直前もしくは直後にシリアのアンティオキアで、あるいは同地からエルサレム上京の途上において執筆されたと推定されています。

      キリスト教大辞典の巻末地図  

 その一方、パウロが本来のガラテヤ人定住地を訪れた可能性があります。パウロが第二回伝道旅行で訪れたのは、デルべやリストラから、「フリギア・ガラテヤ地方を通って行た」(16:6)とあり、第三伝道旅行でも18章23節に「パウロは…ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し」とあり、フリギアとガラテヤが併記されています。この場合のガラテヤは地方のガラテヤ(北部地方のガラテヤ)を指すと考えられるのです。学者の間では便宜上これを「北ガラテヤ説」と呼んでいます。この説によると、手紙は第三回伝道旅行中、おそらくエフェソに二年間滞在していた時(使徒言行録19章10節:紀元53~56年頃)に書かれたと推定されています。二つの説は、どちらとも決定しがたいが、今日の学会では「北ガラテヤ説」が有力視されているようです。

 この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他ならないからです。パウロは正しい福音信仰をまもるために、かれらをはげしい口調でいましめる手紙を書いたのです。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。」(1:1-2)

 手紙の発信者に<使徒とされたパウロ>とありますが、<人々からでもなく、人を通してでもなく>という説明が加えられています。この異常な書き出しは、彼の使徒職と、その説く福音の正当性を疑った者たちが、ガラテヤ地方の諸教会にいたことを推定させます。パウロは自分の使徒職と福音が、人々の力でもなく、人の権威でもなく、ただ神とキリストから受けているという確信を述べています。この確信は、ダマスコ途上での回心の出来事から始まる神の恵みによって与えられた使徒職です。復活されたキリストが天上からパウロに「現れた」のです。パウロは「主イエスを見た」と言い表します(コリント一、9:1、15:8)。神が「御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1:16)と言っています。<キリストを死者の中から復活させた父である神>という表現はキリストの復活を当然の事実とみなしています。<ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から>という共同発信者への言及は、これから述べようとするのは、単に自分一人の主張ではないということを暗示しています。<ガラテヤ地方の諸教会へ>は、この手紙が複数の教会で回し読みされる手紙であることを示しています。

 「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:3)

 受信者のために神とキリストからの「恵みと平和」を求める祝祷の言葉です。パウロのガラテヤ地方のキリスト者に対する暖かい思いやりと深い愛をしのぶことができます。

 「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(1:4) 

 キリストの十字架の贖いの死は、神の救いの計画によるもであり、<この悪の世からわたしたちを救い出そう>とするキリストの救いの業であったことが示されています。

 「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」(1:5)

 神に対する賛美の祈りとなっています。<アーメン>は、アラム語・ヘブライ語の音訳で、「まことに、確かに(そうであるように)」の意味があり、祈りの末尾に添えられるものです。

 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(1:6)

 書き出しの挨拶もそこそこに、すぐ受信者を非難することばが語られます。<キリストの恵みへ招いてくださった方>とは、「人々を選んでキリスト者とさせてくれた神」のことです。<こんなに早く>は、ここでは時間的なことよりも、「簡単に、たやすく」の意を示しています。<ほかの福音に乗り換えようとしている>は、党派や学派の所属変更を意味し、ガラテヤのキリスト者の間に反パウロの党派的な転向の動きのあったことが暗示されています。<わたしはあきれ果てています>は、パウロの批判・懐疑の意味がこめられています。ガラテヤの人たちの律法への心変わりは、神に対する背信行為であり、パウロにとってあきれ果ててしまう思いもよらない出来事でした。

 「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(1:7)

 前節でパウロは律法主義者たちの教えを<ほかの福音>と言ったけれども、それではパウロの宣べ伝えた福音のほかに別の福音があるように誤解されかねません。それを恐れて、誤解の予知のないように<ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではな>いと、きっぱり否定します。<ある人々>とは、律法とか割礼を重んじるユダヤ化主義者のことです。この人たちが<福音>の名のもとに説く教えは、福音どころではなく、人々を<惑わし>、<キリストの福音>を覆そうとしていると警告します。

 「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(1:8)

 パウロは自分自身や<天使>を持ち出してさえ「異なる福音」の存在の可能性を否定します。自分が宣べ伝えた福音の真実性、唯一性、絶対性に対するパウロの確信は、<呪われるがよい>という言葉で表されています。<呪われる>とは、神との交わりを断たれることで、地獄に落ちることを意味します。この激しい怒りの言葉は、パウロの個人的感情による怒りではく、福音の真理を守るために罪と戦う、主キリストへの忠誠心から出た聖なる怒りです。

 「わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(1:9)

 前節の8節と重なる内容です。<今また、繰り返して言う>と、事柄の重大性が強調されています。パウロの宣べ伝えた福音は、神の啓示(1:12)によるものであり、それ故、この福音に反することを宣べ伝えるなら、たといパウロ自身であっても神の呪いをまぬがれることはできません。<呪われるがよい>という最も忌むべき呪いの言葉をあえて口にするほど、パウロの憤りのことばであり、異端者たちを断罪することばです。

「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(1:10)

 敵対者たちは、律法遵守の不用を説くパウロの福音を、人々の<ご機嫌取り>と非難していたと思われます。それに対し、パウロは<今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか>と疑問を投げかけることによって、その非難が全く意味のない、馬鹿げたものであるとの印象を与えようとしています。パウロははっきりと<もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません>と宣言します。パウロは常に使徒として召された自分を<キリストの僕>であると自覚していました。キリスト・イエスの僕としてのみ、自分は存在し、生きていると言う自覚です。<僕(しもべ)>という語は、原語では「奴隷」という意味の語です。パウロが自分を<キリストの僕>と呼ぶ時、彼は心からキリストの御心を行い、キリストの仕える者、キリストへの絶対的依存と服従を表明したのです。パウロは「キリストの奴隷」であることを誇りとしていました。それと同時に、「異邦人に福音を告げ知らせるために」(ガラテヤ1:16)、神とキリストによって召されて使徒となった者であることを明らかにしています。

  パウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:9)と言っています。わたしたちキリスト者は、すべて主の者であり、主に仕える者です。主イエス・キリストの僕として生きることこそ私たちの救いであり喜びなのです。なぜなら人生の終わりの死も滅びではなく、キリストと共に復活の命、永遠の命を生きる者とされているからです。この救いの喜びの福音を人々に伝える使命をわたしたちは与えられているのです。 

 

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