富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主は、あわれみ深く情け深い」 詩編103編1~14節

2019-07-27 18:39:15 | キリスト教

      ↑ 「真実の愛は神から来る。」愛は神から出るものです。(ヨハネの手紙一、4・7)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第7主日 2019年7月21日    午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

             礼 拝 順 序

                                                司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   7(ほめたたえよ、力強き主を)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩編103編1~14節(p.939)

説  教 「主は、あわれみ深く情け深い」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

聖餐式(21)   78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21)  149(わがたまたたえよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                   次週礼拝 7月28(日)  午後5時~5時50分 

                                    聖 書 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

                                    説教題 「キリスト者の愛の実践」

             讃美歌(21) 403 481 交読詩編 38

    本日の聖書  詩編103篇1~14節

 103:1【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。 2わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、4命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、5長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。 6主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。 7主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された。 8主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。 9永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。 10主はわたしたちを、罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 14主はわたしたちを、どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを、御心に留めておられる。 15人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。16風がその上に吹けば、消えうせ生えていた所を知る者もなくなる。 17主の慈しみは世々とこしえに主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らに 18主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ。 19主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。 20御使いたちよ、主をたたえよ、主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げるものよ、力ある勇士たちよ。 21主の万軍よ、主をたたえよ、御もとに仕え、御旨を果たすものよ。 22主に造られたものはすべて、主をたたえよ、主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。

           本日の説教

 詩編103編は、作者自身が経験した罪の赦しと、重い病気からの回復による神に対する深い感謝から、転じてイスラエルに対する神の憐れみを回顧して、神の慈しみの広大にして永遠に変わらないことを述べ、全宇宙こぞって神を讃美すべきことを訴えています。

 この詩は、「わたしの魂よ、主をたたえよ」で始まり、終わっています。詩人は「わたしの魂よ」、わたしの内にあるものすべてよ、と自らに賛美を呼びかけます。そして「主の御計らい」を何ひとつ、「忘れてはなならい」と語りかけます。「主の御計らい」とは、恵みとしての神の御業です。この魂への訴えは、私たちが神の恵みを忘れがちだからです。

 詩は主から受けた恵みを思い起させます。それは、罪を赦してくださり、病を癒しくださり、死の恐怖から命を贖い出してくださることであり、主の慈しみと憐れみを与えられることであり、生きている間良いもの(生活に必要な物資)で満ち足らせ、御霊をそそいで鷲のような若さを新たにしてくださることです。鷲の長命、飛行する姿の力強さ、毎年新しい毛に生えかわり、若さを回復しつづけると考えられたことが、鷲の比喩の背景にあります。

 6節からは、詩人は個人的経験から転じてイスラエルの人々に対する主の恵みに及びます。イスラエルがエジプトで「虐げられていた」時、主は彼らをその虐げる者から解放してくださった、その主の恵みの御業と裁きを思い起させます。正しい審判を行うことで、虐待したものを罰して、イスラエルを救われることを述べます。

7節では、イスラエルが荒れ野で金の子牛を作って拝むという考えられないような罪を犯した時に、主がモーセに対して、御名と本性を示されました(出エジプト記3・13-15、34・6-7)。その時の主の宣言の引用が、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい(8節)」です。神の変わることのない赦しの愛が強調されています。

 更にその宣言は、「永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを、罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。」と、主は、正義を求めて、みだりに人を審(さば)くことをしない、「罪と悪を赦す」神として描いています。

 主の「慈しみ」は、天が地を超えて高いように、「主を畏れる人」を超えて高い。東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と、その驚くべき恵みを宣言しています。「慈しみ」とは深い愛情をいだくこと、わたしたちを決して手離さない愛です。

 また、主の「憐れみ」は、父がその子を憐れむように、「主を畏れる人」を憐れんでくださる、と語っています。「憐れみ」とは人の苦しみや悲しみに、深く同情することです。

 「主を畏れる人」とは、「主に信頼する人」、主を生活の中心とすることを求める者達を指しています。彼らは赦された罪人として主を畏れるのです。

17節でも、「主を畏れる人」の上に、主の「慈しみ」が「世々とこしえに」あることを三度にわたって述べます。

  10節では「罪」と「悪」、12節では「背きの罪」について赦す神の「慈しみ」と「憐れみ」をイスラエルの人達は学びました。

 14節から讃美は、イスラエルを超えて、全人類を創造し、慈しまれる主への讃美に移っていきます。土の塵にすぎない人間に、神は「命の息」を吹きこまれ、人は生きる者になった。塵に過ぎない私たちを、しかし主は御心に留めておられ、わたしたちに慈しみが注がれていることを彼らは述べます。

 15-16節の「人の生涯は草のよう。……生えていた所を知る者もなくなる。」の背景には、イザヤ40・7-8の「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉があります。「神の言葉」の永遠性に対する被造物の無常が歌われています。「神の言葉」は具体的には、イスラエルの救いと繁栄の約束を指します。熱風の前に乾いて枯れる「草」や「野の花」のように、人間ははかないものですが、しかし神の慈しみの永久であることを述べています。神の御子がはかない人間と同じ者になられ、人間の姿で現れてくださったことは、最大の救いです。

 人の生涯は、はかないものですが、しかし神の恵みの御業は、主の契約を守る人に、神が求めておられることを心に留めて行う人に及ぶことが約束されています。主の贖いによって、彼らは罪を犯さないようにされているがゆえに、恵みが満ち溢れるのです。

  この詩は全宇宙の主の統治の宣言をもって閉じられます(19節)。「御使いたち」「御言葉を成し遂げるもの」「力ある勇士たち(主の使い)」「主の万軍(天界自然界の諸勢力)」「御もとに仕え、御旨を果たすもの」「主に造られたものはすべて(人間を含む神のすべての被造物です)」に、天上、地上すべての所で、讃美に加わることが勧められます。

 同時に、その讃美の群れに自分自身も加わろうとする意図を述べて、この詩編は閉じられます。

  地上での一切の祝福にまさって、人に備えられた最大の賜物はイエス(その名は救いを意味する)自身です。主イエスの十字架と復活により、私たちを罪から解放し、生涯良い物で満ち足らせてくださり、私たちの命を墓(原語は、穴で、滅亡を意味する)から贖い出し、永遠の命を与えてくださいました。 

 神がどのような方であるかが、この詩編で歌われています。日本では、神は御利益を与え、災難から守る神々として知られ、拝まれています。しかし愛なる神については知られていません。主なる神は「憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」方であることを宣べ伝えなければなりません。神は、独り子を世に遣わし、その方によって、私たちが生きるようにしてくださいました。ここに、神の愛がわあしたちの内に示されました(ヨハネの手紙一4・9)。神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです、というのが聖書の教えです

 パウロは主イエスをとおして真実の愛を知りました。そして「愛は忍耐強い、愛は情け深い」(コリント一13・4)と説きました。愛は忍耐強く、人を赦す愛です。愛は情け深いとあるように人を思いやる愛です。この愛は、まさに神の愛と重なります。愛は神から出るものです。聖霊によって与えられるものです。この愛を神の求めて、与えられるように、人々に伝えなければなりません。

 「愛は、恨みをいだかない」とあります。京都の伏見で起きたアニメ製作会社への放火事件で三十四人が犠牲者となりました。犯人の一方的な恨みによる犯行のようです。犯人は「小説を盗んだから放火した」と供述しているようです。「恨み」が凶悪な事件を引き起こしたのです。ねたみや恨みを抱くことのない愛が、わたしたちに求められているのではないでしょうか。愛である神は、同時に正義と公正を求められる神でもあります。神の怒りは、正しい裁きを行われる方でもあることをも知らなければなりません。

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