富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天の父の御心を行う者」 マタイによる福音書7章21~23節

2021-01-10 01:43:08 | キリスト教

    「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

降誕節第3主日 2021年1月10日(日)    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                         礼 拝 順 序

                   司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 476(あめなるよろこび)

交読詩編     1(いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章21~23節(新p.12)

説  教   「天の父の御心を行う者」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                    次週礼拝  1月17日(日)午後5時~5時50分    

                                                      聖 書   マタイによる福音書6章19~21節

                                                      説教題  「天に富を積みなさい」

                                                     讃美歌(21) 355 518 27 交読詩篇 71

本日の聖書 マタイによる福音書7章21~23節

7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

                     本日の説教

主イエスは、5章20節で、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさったいなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われています。

 「ファリサイ派」や「律法学者」というのは、ユダヤ人の指導者たちで、人々が律法に従うことが出来るように指導する人々です。ファリサイの意味は「分離した者」で、律法を守らない人間を自分たちと分離し、裁いていました。彼らは、律法の遵守には熱心であり、<外側は人に正しい人のように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている>(マタイ23:28)人達でした。彼らが語っている義は、人間の都合によって律法が再解釈されたものであり、神が律法を与えられた意図と外れていました。律法遵守に努力する彼らは、その努力によって、自分は凡人より神様に近づけたという自負心が起こり、人よりましな人間になった、神様からよい評価を受けられる人間になったという優越感、エリート意識をもつようになり、更には、神様よりも人の評価の方が気になって、外側は立派に見せ、それによって人々から高い評価を受けると高慢になり、終いには神様から高い評価を受けるに相応しい者となったとの思い込むのです。この思い上がりの高慢こそが人を神様から遠い存在とする罪の根なのです。

このことにもとずいて、主イエスは<わたしの天の父の御心を行う者だけが>天の国に入るのである>と言われているのです。

律法の根本精神は、マタイ7章12節に、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言っています。これは律法の根本精神を表した言葉です。また、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問われたとき、 イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22章37-39節)と答えています。パウロも、「律法全体は、『隣人を自分と同じように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5章14節)と述べています。

 つまり律法とは、人を愛することにつきるのです。律法のこまごましたきまりを忠実に守っていても、もし愛がなければ、律法の根本から外れることになるのです。たとえ、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、愛がなければ、無に等しいのです(コリント一、13:3)。では愛とは何でしょうか。それは、人にしてもらいたいと思うことを人にして上げることだと言われているのです。人にしてもらいと思うことを人にするためには、自分を犠牲にしなければできないことです。人を愛するには犠牲が伴います。ここに愛することのむずかしさがあるのです。

この難しい愛を、自己犠牲の愛を示してくださったのは主イエスです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ローマ5:8)。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(ヨハネの手紙一、3:16)とあります。このように、主イエスは私たちを愛しつくされたことによって、律法の完成者となられのです。

律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされません。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。すべての人は皆、罪の下にあり。神の前に正しい者は一人もいないのです。自分の内には善が住んでいないのです。善をなさうという意思があっても、それを実行できないからです。善をなそうと思う自分に、いつも悪がつきまとっています。望まないことをしているのは、自分の中に住んでいる罪なのです。

主イエスは、律法を行うことが出来ない私たちのために、律法を全うしてくださいました。さらに、律法に違反している私たちの罪や過ちを神から赦していただくために、身代わりとなって十字架に死んでくださったのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。イエスを信じる者を義となさるためです。さらに、主イエスは、私たちが、新しい命に生きることが出来るように、罪と死に打ち勝ち、復活されました。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。イエスは天上から聖霊を送ってくださいました。それは聖霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした。霊の働きを求め、私たちを通してキリストに働いていただくことです。自力で肉の支配に立ち向かっても、罪の力には勝つことはできません。霊に導かれることによってのみ、神の御心に従うことができるのです。

私たちは、主イエスの十字架によって罪を贖われたからと言って、律法を守らなくても良いということにはならないのです。律法は救いの条件ではありませんが、神が私たちに命じている戒めなのです。

主イエスは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と宣言します。主イエスは終末の裁判官として現れます。神を<わたしの天の父>と呼び、主イエスは、神の裁きを代行する者となります。<あなたたちのことは知らない>は、詩篇6:9「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ」に基づく破門宣言です。

世界審判者の父は、「主の祈り」にあるように、教会が「わたしたちの天の父」と呼んでもよい方です(マタイ6:9)。天の父の意志を行うことは、努力しなければならないことであるだけでなく、「御心が行われますように」と祈り求めることのできるものでもあります(6:10)。しかし天国へ入る確証ではありません。「天の父の御心を行う者だけが、天国に入ることが出来るのです。

イエスに向かって「主よ」と呼ぶ者は、「イエスは主である」(コリント一12:3)と告白する者であり、キリスト者です。告白できるのは聖霊の働きによるものです。聖霊の働きによらなければ、だれもイエス・キリストを「イエスは主である」と告白することは出来ないからです。神と恵みの業に対する信仰告白は、心と口と行為を含む信仰者の全体をかけてなされなければなりません。「天の父の御心を行う」という、信仰の服従行為、生活をともなわなければなりません。イエス・キリストを「主よ」と告白している者皆が天国に入るのではありません。

終末の日、信仰告白だけでなく、「大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」と主は言われます。

ことばだけでなく、行為においても、キリスト者であることが明白な場合です。実を見ただけではまったく申し分のないものであるにもかかわらず、その動機は自分がやった良いこと、自分が実らせた良い実に生きがいを感じる者たちです。イエスが、自分たちの預言や悪霊追い出し、奇跡を認めてくださると期待して話しています。彼らは神や信徒を欺いているだけでなく、自らをも欺いている救いがたい人たちです。

人間または教会が神的裁きを先取りしてはならず、神が決定をくだすのです。人間が真の弟子であるという根拠は、主御自身の選びと恵みのみにあります。信仰告白や信仰の服従行為はすべて神の働きかけに対する人間の応答であり、そのような応答を引き起こした神にこそ栄光を帰すべきです。人間の側には功績とすべき何物もありません。私たちは命じられたことをみな為し終えた時、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたにすぎません」(ルカ17:10)と言うべきなのです。それが、「わたしは・・・・・をした」と自分の行為を誇りはじめた瞬間に、どんなに崇高な行為であっても、神のわざを自分のものと主張する自己主張、自己義認、不従順となるのです。そのとき、主は言われます。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」と。このことばは「世界審判者の断罪宣言」です。外面はどうあろうとも、主は真実を洞察されます。私たちは自己欺瞞や他者の評価に依らず、日々新たにみことばを聞き、主の御心を問うて、自分自身の生活の軌道修正をしなければなりません。「いつも従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:12-13)常に主イエスに結ばれていること、愛の実践を伴う信仰こそが大切なのです(ガラテヤ5:6)。

こうして私たちは、審判者である主イエスを覚えて身を正され、世の終わりまで私たちと共におられる方(マタイ28:20)として、日々交わることを許され、主イエスの御力に支えられ、担われて歩むのです。

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