富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主にある家族の関係」 コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節

2017-08-26 16:14:30 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   聖霊降臨節第13主日  2017年8月27日(日) 午後5時~5時50分

   礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

交読詩編  128(いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)  コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節(p.372)

説  教      「主にある家族の関係」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   544(イェスさまが教会を)

献 金   

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷          

後 奏  

              次週礼拝 9月3日(日)  午後5時~5時50分

              聖書  ローマの信徒への手紙8章18-25節

              説教   「忍耐」

              讃美歌(21)355 528 24 交読詩編 147・1-7

 本日の聖書 コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節

 3・18妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。19夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。20子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。21父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。22奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。24あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。25不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。4・1主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。

   本日の説教

 「神の御心によってキリスト・イエスの使徒されたパウロと兄弟テモテから」(1章1節)、コロサイにいるキリストに結ばれている兄弟たちへ宛てられた手紙です。「わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください」(4・18)とあります。コロサイ書は、エフェソ書、フィリピ書、フィレモン書と共に、パウロの「獄中書簡」と呼ばれています。文体や語彙や表現形式などと、終末論など思想が他のパウロの書簡と違うところから、この書もエフェソ書と同じようにパウロの真正な手紙ではないとされています。

【パウロの名で書かれている手紙は13通ありますが、そのうち、真正な手紙と言われているのは、ローマ書、ガラテヤ書、コリント書一と二、フィリピ書、テサロニケ一、フィレモン書の7通です。他のコロサイ書、テサロニケ書二、テモテ書一と二、テトス書の5通はパウロの直筆(口実を含めて)ではないとされています。しかし、正典として認められた文書です。】

 コロサイ書はパウロと深い関わりを持つ人が、パウロと共に書いたものと考えられています。その人はエパフラスか、パウロのエフェソにおける幽閉時代に旅行を共にしたテモテなどが考えられます。

 コロサイの町は、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレの近くにあるメアンダ―ル川の支流のリュコス川の南岸にあった町で、そこより17㌔下流にはラオディキヤの町があり、15キロほどのところにはヒエラポリスの町もありました。イエスの福音がコロサイとその地方に広まったのは、パウロのエフェソにおける伝道期間中と推察されています。コロサイの教会共同体の出身者でもあったパウロの協力者エパフラスが福音をもたらしました。

 今日の聖書の箇所、3章18節~4章1節は、当時の家族への勧め、いわゆる「家庭訓」となっています。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。」「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。」

 ここでは先ず夫と妻の関係から始まります。というのは、人間関係の中で、夫婦関係が中心だからです。この夫婦を通して、次に出てくる子供との関係が出てきます。妻に対する訓戒は、夫に対する自由で責任をもった従順が勧められ、夫は妻に対するすべの配慮と愛を実践することが勧められています。この従順と愛は創造の秩序に則ったものです。

 創世記には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1章27節)と記されています。神が人を「神のかたち」に創造されたとは、神が人を神に応答するもの、責任を負うもの、交わりの中にある存在、男と女に創られたということです。男と女は互いに協力者であり、相手であり、その頂点として結婚があります。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)とあります。

 結婚によって人間創造が完成します。それゆえ、結婚は神の創造の秩序の下にある行為であり、それは特定の男と女が、自己の責任において、相手を選択し、永続した関係に入ることによって神の創造の御業に参与していく行為なのです。結婚というものが、そのような基底に立っているので、パウロは妻たる者に、夫に仕えるように勧め、夫に対し妻につらくあたってはいけないと命じます。妻に対しては「主を信じる者にふさわしく」とあります。もし夫が間違っていたなら、それを正すべきです。夫中心に仕え、従うのではありません。キリスト中心です。

 夫に対しても、ただ人間的、自己中心的に「愛する」のではありません。「つらく当たってはならない」とは、封建的な時代の夫の暴力を戒めているのです。夫の主人顔した横暴な態度を戒めているのです。

 このように、結婚の当事者が「主にある者」の自覚を持ちつづける時、結婚生活はキリストと教会の関係を反映した祝福されたものとなるが、それを失うとき、妻は不従順な妻となり、夫は横暴な夫になる危険に曝されます。結婚生活は人間的な愛が誓われたとしても、それ自体、完全なものでなく、永続を保証されたものでもありません。「主にある」ということが夫と妻の生き方の根底になければなりません。

 「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。」親子の関係は夫婦の関係と違った意味で、人間関係の最も根本的な形態です。それは取り消すことも、変更することも出来ない永続的な関係です。子はその存在を親に負い、親は子の存在に責任を持たねばなりません。親子の関係は、人間の思いを越えた創造の秩序に属するので、基本的に神との関わりの中でとらえられなければなりません。

 両親に従うというのも、日本の封建時代のように、親中心ではありません。「主に喜ばれるように」とあるように、子が親に従うのは、主イエス・キリストが喜ばれるからするのです。父親の言いなりになることではありません。聖書が示すように、親は神様により子どもを監督する権威が与えられているのです。神様の権威をいただいて神様に代わって子供達を育てるのだから、子供は両親に従うのです。これが子供が親に従う事の真の理由です。けれども、親も人間ですから神様のみこころに反するような事を言ったり、行わせるようにするならば、従わないということです。エフェソ書6章2、3節には、「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あたなは幸福になり、地上でながく生きることができる』という約束です」とあります。

「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」人間はその父性を神から受けています。エフェソ書3章15節には、神を御父と呼び、「御父から、天と地にあるすべての家族がその名(父という名)を与えられています」とあります。その父性が人間に与えられたのは、父なる神の恵みに他なりません。それゆえ、親たる者はその子の存在に責任あるものとして、子とともに神の恵みの前に立ち、その子を親の信仰を受け継ぐ者に育てなければならないのです。その子供のあるべき姿は神の恵みのもとにある自由な人間です。それゆえに、「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないから」と言われるのです。両親が子供たちの反発を招く、厳しい律法的な鋭さを持ち込む危険性があります。この危険性は、何か不可能なことを子供に要求し、こうして子供たちを無気力にさせてしまうか、さもなければ、子供自身が持つべき必要な配慮を失わせてしまいます。

 エフェソ書6章4節には、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけさとされるように、育てなさい」とあります。キリスト者である親は祈りつつ神に委ねながら育てることが大切です。父親も、母親も、キリストの愛と知恵なしには、子供に対して正しい態度をとることはむずかしいのです。

「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。」最も長い訓戒は奴隷に対してなされています。そして、主人たちに対して、「奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです」と勧めています。

 新約聖書が成立した時代、その経済制度も経済組織も奴隷の存在によって支えられていました。人々は奴隷の存在を当然なことと思っていました。しかし、パウロは奴隷を自由人と同じ人間の立場に置き、奴隷に人間としての尊厳さを自覚させています。主人たちが奴隷に対して、「正しく、公平に扱う」のは、僕たちを平等に取り扱うことでなく、主人自身が神の前に「均しい者」として立つことなのです。エフェソ書には、「あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」(エフェソ書6・9)とあります。この原則は、現代の雇用者にも当てはめることができます。

  パウロがここで取り上げているのは、単に家庭生活におけるキリスト者の在り方ではありません。より根本的な問題、「キリストと共によみがえされた者」(3章1節)の生き方、その自由と責任の問題です。キリストを信じる家族に対する行動規範は、3章17節の言葉で枠づけられています。<…何を話すにせよ、行うにせよ、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝>することが基調にあります。行動の動機は、主イエスを思うことです(4章1節)。

  すべての人間関係において、改めて各自が神から召されていることの意味が問い直されています。それは市民道徳のキリスト教的基礎づけといったことではありません。神から選ばれた者はどのように生きねばならないかということなのです。夫も妻も、親と子も、雇用者と労働者も、神の愛と知恵を必要としています。「主にあって」生きるのでなければ、幸せな人間関係を築くことはできないのです。

  おわりに、日本キリスト教団発行の「信徒必携」に記載されている「キリスト者の家庭」について記事を紹介します。

 「キリスト者の家庭は神を中心に、「この家の主人は主イエス・キリストである」ということを念頭において、その日々の生活は神の恵みを感謝する生活であり、神の栄光にあずかる希望をもった喜びの生活である。……神を中心に、聖書を読み、家庭礼拝を守り、祈り深く感謝に満ちた日常の、なごやかなクリスチャン・ホームのふんいきは知らず知らずのうちに近隣へのよい感化を及ぼし、愛と敬虔にみちたキリスト者の言葉づかいや行動は、自然にキリストのあかしとなり、無言の伝道にもなる」とあります。

 家族の皆が、聖霊の恵みを受け、自我中心の罪から解放され、和合を尊ぶ、愛に満ちた人になることを願う次第です。

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