富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「タラントンのたとえが主張するもの」 マタイによる福音書25章14~30節

2020-02-14 00:58:59 | キリスト教

       ↑「タラントンのたとえ」のステンドグラスはロンドンの聖エディス教会のために19世紀末に、クレイトンとベルによって製作されました。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

          降誕節第8主日   2020年2月16日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                                   礼 拝 順 序

                                                          司会 千田 開作兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(旧) 525(めぐみふかき主のほか)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け、答えてください)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書25章14~30節(新p.49)

説  教  「タラントンのたとえが主張するもの」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(旧) 273B(わがたましいを愛するイェスよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                      次週礼拝 2月23日(日) 午後5時~5時50分  

                                                      聖 書 ルカによる福音書10章30~37節

                                                      説教題   「善(よ)いサマリア人」

                                                      讃美歌(21) 204 430 交読詩編 84    

                       本日の聖書 

 25:14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

                          本日の説教

今日の「タラントンのたとえ」は、「タラントのたとえ」として教会でよく読まれいる箇所の一つです。この「タラント」は英語の「才能、能力」を意味するタレント「talent」の語源になっています。日本では、テレビタレント等、芸能人を指す和製英語になっています。タラントン(=タラント)は、ギリシヤでも用いられた通貨の単位です。

このたとえ話では、ある人が彼の僕たちを呼んで長旅に出発するときに、それぞれの能力に応じて財産を委託しました。マタイによる福音書ではそのお金で何をすべきなのかは、それぞれの人にまかされています。ルカによる福音書では、「わしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」と命じています(ルカ19・13)。そして、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けました。一タラントンは、およそ六千デナリオンに相当します。一デナリオンは日雇い労働者の一日分の賃金に当たりますから、一タラントンは六千日分、すなわち、十六年間の賃金に相当する大きな金額です。二タラントンは三十二年間、五タラントは八十年間の賃金に相当します。

この金額の大きさは、神が私たちに委託された賜物が、どれだけ貴重なものであるかを示しています。三人の僕は「それぞれの力に応じて」異なった金額が与えられていますが、これは異なった特別な賜物を象徴しています。最も少ししか能力を持たない人でさえも、大きな金額を与えられているのは、重大な責任が与えられており、それこそ彼が感謝して受けるべき名誉なことなのです。

旅行に出かける「ある人」は、ルカによる福音書の「ミナのたとえ」では、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために」(ルカ19・12)とあります。当時、ユダヤの統治を許可してもらうためにローマに請願に行ったヘロデ大王の子アケラオを反映したもので、「ある人」とは、「天の国」の王である主イエスを指しています。この主人の旅はイエスが地上の使命を終えて天のみ座に戻られることであり、「帰って来て」は主イエスの再臨を指し、最後の審判の時を表しています。「僕たち」は天の国・「神の国」の民です。

第一番目の五タラントン預かった僕は「出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけ」ました。どのようにして二倍にしたのかは記していません。おそらく「商売した」とは賜物を用いての奉仕を指すものと思われます。

その後、かなり日がたってから僕たちの主人は帰ってきて、報告を求め、清算を始めました。

第一番目と第二番目の僕は、その元金を二倍に増やしたのでほめられました。主人と一緒に喜んでくれ」という暖かい称賛と招待の言葉によって、その忠実な労働が報われています。「喜んでくれ」は天の国に入る喜びであり、天の国で主イエスと共に食卓につくようにと招待を受けるのです。このたとえの強調点は最後の清算の場面であり、第三番目の僕に焦点が合わされています。重点は、不忠実な僕と主人との会話です。僕は、主人を非難することによって、自分の委託されたタラントンで何もできなかったことを正当化します。

  

    「タラントンのたとえ」のステンド・グラス カトリック宇和島聖ドミニコ教会

 第三の僕は、彼の主人を厳格で強欲な人で、つまり正当な分けまえをはるかに越えたものを求めるような狡猾な人であるとみているのです。そして失敗して金を損失すれば厳しい処罰が待ち受けていることをこの僕は恐れたのです。主人から割り当てられた財産は、彼にとって特権や名誉ではなくて、恐ろしいばかりの責任なのです。そのタラントンを地中に埋めておくことで、彼は主人ために財産を保存しておいたのです。当時の人々は、お金(銀貨)や宝物を地中に隠すことは最も安全な保管方法だと考えていたからです。明らかに用心深く行動したことによって主人からほめられることを期待しているのです。そして主人から預かった金をそっくり返還します。

主人はこの時、第三の僕を「怠け者の悪い僕だ」と叱ります。地中に隠しておくくらいなら、その僕はわずかでも利息が生まれるように「銀行に預けておくべきであった。その苦労ぐらいはしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言い、「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ」と言われ、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われました。神は一度にすべての使命を賜物を与えらえないで、様子を見ながら少しづつ増し加えられ、徐々に豊かになるのです。反対に、あまり多くのものを持っていない人は、その人の手にしているものまで取り上げられ、徐々に失っていくという霊的な生活の原則を明らかにして、たとえ話を締めくくります。

この主人と第三の僕の対話から、僕は主人に対する愛を持っていないことが明らかになります。彼は、実際にはただ自分自身にしか興味がなく、その結果、奉仕ではなて安全だけが、彼の目標となっています。主人が、それほど多くの金額を彼に委託したことへの感謝の念は、いささかも存在していません。金を隠したことは、彼に対する主人の信頼を裏切る行為でした。主人への尊敬は、その権力を不承不承認めることに限らられています。

この僕は、他を批判するだけで細かい律法を守ることに汲々としたファリサイ派の人々を表しているともとれます。彼は律法を細かすぎるほどによく守って、個人として、神の前に、安定した立場を求めます。彼は利己的排他的行動でイスラエルの宗教を実りなきものにするのです。

 この怠惰な僕はイスラエルの指導者、特に律法学者たちを象徴しているとも解されます。神の言葉(律法)は彼らに委託されました。その委託されたタラントンをどのように用いたかを問われた時がきます。ところが彼らはこれをしまいこみ、ひとりじめにし、そして実は怠惰でしかありませんでした。ここではまぎれもなく主のご委託に対して不忠実であった僕に対して、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と厳しい審判がなされることが語られています。

 主イエス・キリストにおいて神の国の到来を知らされ、キリストの十字架と復活を通して神の国の福音を明白に示された主の僕であるキリスト者にとっても、このたとえは厳しい警告を与えています。「それぞれの力」、能力に応じてという語句が示すのは、再臨を待ち望キリスト者が、神が委託された賜物を十分利用するようにと決断を迫るものです。また、第三番目の僕から学ぶべきことは、神の信頼に応え、神の愛にむくいるために、他者に忠実にまた倦むことなく奉仕することの中で示すべきであるということを教えています。

このたとえでは「タラントン」はお金以上のもの、神の国の民に与えられる賜物で、主に霊的な働きに関わるものや、人格にかかわる霊的な恵みです。

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(ペトロ一,4・10)とあります。

「一人一人に霊の働きが現われのは、全体の益となるためです」(コリント一,12・7)として、知恵の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力の九つがあげられています。更に異なった賜物として「預言、奉仕、教え、勧め、寄付、指導、慈善」(ローマ12・6-8)の七つの賜物があげられています。そしてなによりも大切なものとして聖霊の実である「愛」を追い求めなさいと勧められています(コリント一,13・1、14・1、ガラテヤ5・22)。

このタラントンのたとえは、神から与えられた可能性、 豊かさ、富を最大限に生かすことが求められています。神を信頼して、失敗を恐れず、与えらえた賜物を活かして、神と隣人のために、また、また、主のからだである教会のために働くことなのです。

 

 

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