富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの新しい愛の掟」 ヨハネによる福音書13章31~38節

2018-04-24 21:10:42 | キリスト教

    ↑ティントレット Tintoretto: Christ washing his disciples' feet (c. 1556; London, National Gallery, oil on canvas; 201 x 408 cm)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週  報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    復活節第4主日 2018年4月22(日) 午後5時~5時50分  

  礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編   34(どのようなときも)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書13章31~38節(新p.195)

司会者祈祷

説  教   「キリストの新しい掟」       辺見宗邦牧師

祈 祷              

讃美歌(21) 520(真実に清く生きたい)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

              次週礼拝 4月29日(日) 午後5時~5時50分

              聖書 ヨハネによる福音書15章1~11節

              説教題   「神の民」

              讃美歌(21)404 417 24 交読詩編95編

  本日の聖書 ヨハネによる福音書13章31~35節

 13:31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 36シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」37ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。

    本日の説教

 「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」(31節)という言い出しは、これから語られるイエスの最後の言葉への始まりとなります。最後の晩餐の席から、イエスを裏切るユダが出て行きました。イエスを敵の手に売り渡すユダの裏切りは、決定的にイエスが栄光を受ける時が来たことを示します。<栄光を受ける>とは、十字架につけられ、復活し、天へ帰られることです。その時が、今や目前にせまっているのです。十字架は、人間的に見るならば、この世の最高権威者である大祭司カイアファから神を冒涜する者として断罪され、ローマ総督ピラトによって処刑される、はずかしめと敗北のしるしですが、しかしイエスは、この屈辱の死を栄光と勝利のしるしとして負う決意をここで表しているのです。この決意は、イエスが死に至るまで神の御心に従い、その全生涯を通して、世を救おうとする神の愛と正義を世に示すものでした。

 旧約聖書では『栄光』とは神の顕現を言い表す言葉でした。「神の栄光」は、神の本質が人の前に顕現する様子を表現する言葉です。イエスはその御業を通して神の栄光を受け、神はイエスによって栄光を受けることが告げられます。栄光における父と子の一体性が明らかにされます。十字架と復活は、まさに神が神であることが啓示される時です。

イエスは、この地上を去って行くことを弟子たちに語ります。そして、7・33でユダヤ人に語った言葉を思い起させます。イエスは、ユダヤ人に向かって、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。これはきびしい断絶の宣言でした。イエスと彼らの世界との間には超えることの出来ない断絶があるのです。しかし、今や、同じことを弟子たちにも言わなければならない時が来たのです。そして弟子たちもイエスの行く所に、弟子たちが来ることはできないことを知らせます。

  イエスは、地上に残された弟子たちに、新しい掟を与えます。<互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい>という愛のいましめです。モーセの十戒には、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19・18、マタイ19・18)とあり、イエス御自身も今までたびたび教えてこられました。必ずしも新しい掟ではありません。しかしイエスの言う<新しい掟>とは、イエスによって示された新しい愛です。「主はわたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(ヨハネの手紙一、3・16)とヨハネは記しています。

      ル―ベンス 1632年

 自ら弟子の足を洗い、人々の罪をあがなうために、自分を捨てて十字架の死を負うイエスの生涯そのものが、真実の愛を示しています。このイエスの愛を受けて、弟子たちも、そしてわたしたちも、互いに愛し合いなさいと勧められているのです。<互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわた互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる>。ヨハネ福音書で説かれている愛は、マタイ福音書の山上の説教で説かれているような敵をも愛する愛ではありません。それは、共同体内部における愛なのです。互い愛し合うことが、わたしたちがイエスの弟子であることのしるしなのだ、とイエスは言われます。イエスは少数の弟子たちにこの戒めを与えることによって、神と彼らの間に人格的結合関係を確立し、新しい救いの担い手たらしめようとされたのです。

  しかし、わたしたちは、互いに愛し合うことができるでしょうか。主イエスの言葉を実行することは、人間に可能なのでしょうか。本来利己的、自己中心的な人間が、キリストのような献身的、自己犠牲的な愛を実践することは出来ません。では、どうしてそれが可能となるのでしょうか。それは「わたしがあなたがたを愛したように」というキリストの愛の事実に支えられ、励まされ、促されて、可能になるのです。人間の力ではできないことが、キリストの愛の出来事にふれ、キリストへの信仰により、キリストの霊、聖霊の働きにより、できないことができるようにされるのです。愛を実践できない自分の罪を告白しつつ、出来る自分へと変えられることを祈ることによって、新しい人に造り変えられ、できるようになっていくのです。

 使徒パウロ、コリントの信徒への手紙13章で、愛について説きました。有名な「愛の賛歌」と言われる教えです。キリストの愛から学んだ真実の愛についての教えです。そして、14章1節で、「愛について追い求めなさい」と勧めています。これは「愛を熱心に祈り求めなさい」ということです。愛は神に願い求めて与えられるものであることを示しています。

 シモン・ペトロがイエスに<主よ、どこへ行かれるのですか>と言いました。以前のユダヤ人がそうであったように(7・35-36)、ペトロは、イエスの言葉の意味を理解することが出来ません。イエスはペトロの問に答えて<わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることのなる」と言いました。するとペトロは<主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます>と決意を表明しました。それに対して、<はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう>と、ペトロの三度の否認を予告し、事実、その通りになります(18・15-18)。ペトロの人間的な決断は、破れていきます。人はただ聖霊によらなければイエスを主キリストと告白し、キリストの後に従うことはできません。イエスは、自分だけを守ろうとする人間の弱さを熟知しておられたのです。しかし、イエスがすべてを知っておられたことが、三度もイエスの弟子であることを否定した後のペトロの慰めになるのです。

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