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↑ 【墓を訪れる三人のマリア】バルトロメオ・スケドーニ
〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会
週 報
復活節第1主日 2022年4月17日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 辺見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)
交読詩編 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マルコによる福音書16章1-8節(新p.97)
説 教 「キリストの復活」
祈 祷
聖餐式 72(まごころもて)
讃美歌(21) 328(ハレルヤ、ハレルヤ、たたかいは終わり)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。富谷教会に電話で申し込みください。
次週礼拝 4月24日(日) 午後5時~5時50分
聖書 コリントの信徒への手紙一、15章1~11節
説教題 「パウロにも現われたキリストの復活」
讃美歌(21) 204 402 27 交読詩編 145
本日の聖書 マルコによる福音書16章1~8節
16:1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 9〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。〕
本日の説教
主イエスが十字架上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時頃でした(マタイ27:46)。遠くから見守っていた婦人たちの中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいました。<マグダラのマリア>はガリラヤ湖南西に位置するマグダラ出身で、、イエスのガリラヤ伝道中に七つの悪霊を追い出してもらった婦人です(ルカ8・1-2)。<サロメ>はゼベダイの妻で、ヤコブとヨハネの母(マタイ4・21、27・56)で、クロパの妻(ヨハネ19:25)と同一視されています。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々です(マルコ15:40)。
アリマタヤ出身で身分の高い議員のヨセフが遺体の引き渡しを願い、イエスを十字架から降ろして、亜麻布で巻き、岩を掘って作った横穴型の墓の中に納め、墓の入口には石を転がして閉じておきました。アリマタヤはエルサレムの北西32キロの町です。 イエスの弟子でないヨセフが大胆にもイエスを葬ったのです。マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました。
土曜日の日没で安息日が終わるので、買い物が出来るようになります。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人はイエスの遺体に油を塗りにいくために香料を買って準備しました。婦人たちにとって、イエスへの最後の奉仕であり、精一杯の愛から出た行為でした。翌朝、日曜日の夜明けの朝早く、すぐ墓に行きました。
彼女たちは、墓へ行く途中、だれがあの墓の入口の石を転がしてくれるだろうかと、話し合っていました。墓は岩盤に掘り込まれた横穴型のものです。ところが墓に着くと石は既にわきへ転がしてありました。非常に大きい石でした。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚きました。
若者のように見えた天使は、「驚くことはありません、十字架につけられたイエスは復活されて、ここにはいません」と言いました。「復活されて」は、復活させられて、という受動態です。イエスの復活は父なる神の行為です。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています」と、ペトロ一、1:21にあります。
「御覧なさい。お納めした場所です」とイエスが納められた空虚な墓を示し、イエスが復活されたことを示しました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」この言葉には弟子たちに対するイエスの愛があらわれています。弟子たちはイエスを見捨てたが、イエスは弟子たちを見捨てません。三度イエスを否認したペトロも見捨てられていません。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。かねて言わていたように(マルコ14:28)、そこでお目にかかれますよと天使は言いました。ガリラヤにおけるイエスの復活顕現を示しています。婦人たちは、天使より最初の復活の使者として立てられました。
天使の言葉は、十字架につけられた者が甦ったという、人間の理解をはるかに超える出来事を告げたのです。イエスの復活は人間に恐れを生じさせる驚くべき奇跡です。婦人たちは墓を出て、逃げ去りました。震え上がり、恐れて、正気を失っていました。ここには少しの喜びもなく、イエスの復活という恐るべき神の出来事に対する恐怖と無理解だけがあります。そして、だれにも何も言いませんでした。非常に恐ろしかったからです。イエスの復活は恐ろしい神的な出来事でした。天使の言葉は、十字架につけられた者が甦ったという、人間の理解をはるかに超える神の奇跡でした。
マルコ福音書は復活のイエスの顕現物語を福音書の中に取り入れず、十字架につけられたナザレ人イエスが甦り、ガリラヤで弟子たちに会うという天使の告知だけを記しています。婦人たちもイエスの空虚な墓を示されただけではイエスの復活を信じることには至っていません。復活を信じる信仰は、生ける復活の主と出会うことによって生まれるものであり、主の御言葉により、主の聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです(コリント一、12:3)。
ガリラヤはイエスがその活動を開始し、弟子たちを召し出した場所です。弟子たちはかつての出会いの場所で復活のイエスに会います。復活のイエスはかつてのようにガリラヤで弟子たちに会い、<わたしについて来なさい>と呼びかけ、再び彼らをとおして宣教の業を始めるのです。
16章9節以下の「結び」は、本文に付加された部分です。他の三福音書に見られる顕現物語の諸伝承に基づいて、復活のイエスの顕現を述べています。
マグダラのマリアへの復活者の顕現はヨハネ福音書20章14節に記されています。イエスは週の初めの日曜日の朝早く、まずマグダラ出身の女といわれるマリアに御自分を現されました。マリアは、イエスと一緒にいた弟子たちや婦人たちが、イエスが死んだあと、泣き悲しんでいるところへ行って、復活されたイエスが現れ、お会いしたことを知らせました。しかし彼らは、イエスが復活して生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じませんでした。
この日、その後、二人の弟子がエマオという田舎の方へ行く途中、イエスが別の旅人の姿でこの二人に御自身を現されました。ルカ福音書24:13-35による記事です。この二人もエルサレムに行って、残りの弟子たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。
その後、十一人の弟子たちが、夕食の食事をしているとき、イエス御自身が彼らの中に現れました。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました(ルカ24:37)。そこでイエスは「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになりました。イエスは彼らの不信仰とかたくなな心をおとがめになりました。復活されたイエスを見た人々の言うことも、彼らにイエス御自身が現れても、信じなかったからです。
聖書は復活について、次のような証言をしています。第一に、復活のイエスはたびたび弟子たちにあらわれたので、弟子たちは復活の証人として立ち上がったことです。イエスの裁判のときは、三度まで、「イエスを知らない」と否定したペトロが、「神はこの方(イエス)を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(使徒言行録3:15)と言って立ち、やがてそのために殉教の死をとげています。
第二に、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(コリント一、15:3-6)という言葉です。
第三は、新約聖書はイエスが復活したから出来上がったものであること、キリストの教会が存在していること、主の日と称してイエスの復活の日である日曜に礼拝が守られていること、などです。
イエスの十字架の死は、わたしたちの罪のあがないのための死でした。すなわち、「罪の払う報酬は死です。」(ロ-マ6:23)とあるように、わたしたちが自分の罪のために支払わなければならない値は、死であったが、それを、イエスがわたしたちに代わって支払われ、死を滅ぼされ、永遠の生命が約束され、イエスの復活によって与えられるようになったのです。
キリストの十字架と復活が、もっとも大切な福音の中心です。キリストが復活しなかったのならわたしたちの信仰はむなしく、今もなお罪の中にあることになります。キリストの十字架の死と復活を信じる信仰は、ただ、二千年前に死刑に処せられた主イエスが甦ったという奇跡のみを信じることではありません。復活されたキリストが今も生きておられると信じることなのです。復活というかつて起こったことを信じるだけでなく、復活の主が今も生きて働いておられ、私たちを導き、罪から解放し、永遠の命を与えて下さっていることに信頼して、その命に生かされるのです。主イエスが生きておられるというのは、復活の後、天に挙げられ、父なる神の右の座におられて世を支配し、聖霊をわたしたちに与えて、主イエスは生きて働き、御自身を御言葉を通してあらわしてくださるのです。
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