富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「あなたの敵を愛しなさい。」 マタイによる福音書5章38~48節

2020-01-11 22:41:02 | キリスト教

     ↑  Sermon on the Mount by Carl Bloch(1877)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

     降誕節第3主日  2020年1月12日     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)                                                                                                                    聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせあなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                礼 拝 順 序

                                                              司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   4(世にある限りの)

交読詩編   23(主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書5章38~48節(新p.8)

説  教  「敵を愛しなさい」   辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21) 280(馬槽(まぶね)のなかに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

           次週礼拝 1月19日(日) 午後5時~5時50分  

           聖 書 マタイによる福音書6章1~18節

           説教題  「祈るときには」

           讃美歌(21) 494 513 交読詩編 5  

  本日の聖書 マタイによる福音書5章38~48節

 5:38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」                                                 43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

      本日の説教

「目には目を、歯には歯を」という句は、旧約聖書に出て来る言葉です。出21・24、申19・21、レビ24・20の中に記されている言葉です。そのほか、レビ19・12-18も念頭においていたようです。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(レビ記24章19、20節)と記されています。

この教えが意味しているのは、過剰な復讐をしてはならない、ということです。人から何か損害や苦しみを受けたら、それに対して個人的な恨みや憎しみによって復讐しようとすると、自分が傷つけられたよりもひどい復讐をしようとします。それが人間の復讐の思いです。復讐は復讐を生み、エスカレートしていきます。そのような、復讐が過激になっていくことへの抑止力(創4・23参照)として、この「目には目を歯には歯を」という戒めがあるのです。

しかし、主イエスの時代の律法学者やファリサイ派の人は、律法は言葉通りに守ることが正しいことであると考えるようになり、「目を傷つけられれば、目を傷つけ返してもいい」「歯をやられれば、歯にやり返してもいい」というように、復讐することが自分に与えられた権利であるかのように思ってしまっていました。本来、神様は人と人が互いに傷つけあうこと、殺しあうことから守るために立てられた律法が言葉通りの解釈により、変容してしまっていたのです。

これに対して主イエスは、「しかしわたしは言っておく」と言われ、これまでの「目には目を歯には歯を」の解釈を否定され、「悪人に手向かってはならない」と報復を否定するだけでなく、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えます。これは打たれてもなお毅然と立つ勇気がなければできることではありません。

「あなたを訴えて下着を取ろうとする者」というのは、多分損害賠償か借金上の訴訟で、担保として下着をとる場合でしょう。身につけたものを脱ぐ以外に何もない貧しい状態です。下着という安価なものまでも裁判で要求される状況で、「上着をも取らせなさい」とあります。下着よりも高価な上着まで与えよというのです。上着は、身を守るもの、また寝床のない人にとっての寝具でもありました。

「一ミリオンいかせるように強いるなら」のこの強いるは、国家に強いられるということを示す言葉です。この当時、ユダヤは、ローマ帝国に支配されていましたから、戦争が起これば、ユダヤ人は軍隊に徴兵されるだけでなく、食糧を緊急に強制的に提供させられることもあったようです。そのように人に対して、求めに応じるだけでなく、こちらから進んで余分の奉仕をせよというのです。「一緒に来いといった1ミリオン(約1480m)だけでなく、一緒に2ミリオンいきなさい」と主イエスは言われます。

「左の頬をも向けなさい」「上着をも与えなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」ということに示されているのは、そのように自分を苦しめる相手に対して、むしろ愛をもって臨めということです。これはただ抵抗するな、対抗するなということだけではありません。

「隣人を愛し、敵を憎め」の「隣人を愛し」は、レビ19・18の引用です。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」とあります。「敵を憎め」は旧約聖書に中にはありません。むしろ旧約聖書は敵(あるいは外国人)に対して親切にふるまうべきことをしばしば教えています(出23・4-5、箴24・17、25・21-22など)。

イスラエルにおいて<隣人>とは、同じ神への信仰をもつ同胞のことであり、神との契約共同体に入っている者のことです。したがって非イスラエル人は<寄留する者>(レビ19・34)であって<隣人>ではありません。このように<隣人>が閉鎖的な意味があったのに対して、主イエスは敵をもすることを求めます。つまりイエスの言葉は<敵を憎め>を否定するのみでなく、隣人愛の限界を破る言葉でした。ここでは隣人と隣人でない者との区別そのものが撤廃され、愛の対象は何によっても制限されません。これは全く驚くべき発言です。

 「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。自分を迫害する者のために祈りなさい」との命令は、民族的・宗教的区別をのり越えて、隣人愛の姿勢を貫くことを要求します。隣り人とは特定の性質をもっただれかではなく、わたしたちが現在具体的に出会っている人です(ルカ10・25-37の「よきサマリア人のたとえ」)。

 「自分を迫害する者のために祈りなさい」も衝撃的なすすめです。旧約には敵に対抗する祈りはあっても、敵のための祈りは全くありません。これは主の福音の新しさです。

さらに、愛において隣人・敵の区別が消えるようにイエスは善人・悪人の区別さえ超えてしまいます。神がすべての人に<太陽を昇らせ……雨を降らせる>(45節b)という場合、人間に対する神の働きは人間によって条件づけられるのではありません。<父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである>は、素朴な比喩的表現ですが、そこには新しい「神」観が示されています。このような神の哀れみを知り、この哀れみによって神の子とされていることを理解すると、敵を愛することは義務ではなくて、神の子の本来の姿であることを知らされるのです。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」。ここでは徴税人が敬虔でない世俗主義的人間の代表としてあげられています。「自分の兄弟にだけ挨拶する」という場合の兄弟は、肉親のみならず、ファリサイ派の人々が同じ仲間をもこの名称で呼んでいたように、何らかの意味で密接に関係のある同胞です。「挨拶」とは街頭の儀礼のような形式的なものであるより、「抱き合って口づけする」ような親密な愛情の表現です。例え同一集団の中では共に生きる相互愛があったとしても、それが閉鎖的な集団であり、他者に対する差別と排除によって保たれているのであれば、それは愛というより集団的自己保存本能です。しかし神の愛は絶えず外に向かって開かれ、新しい交わりを作り出してゆくものです。

 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。キリスト者すべてが「完全な者」となるように期待されているのです。キリスト者は完全を目指して歩み続ける途上の人間です。

主イエスが求めておられることは、極めて高度な倫理です。生まれつきの人間には、実践不可能な戒めです。「敵を愛しなさい」(マタイ5・43-48)という言葉も、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(同39)という言葉にも、「どうしてそんなこ とができるだろうか」とか、「私には、そんなことはとてもできない」と言う人が多いと思います。しかし、これは、歯を食い縛って努力しろと、無理を要求している言葉ではありません。もし私たちが神の恵みに生かされていれば、自分を憎む人、自分にひどい仕打ちをする人さえも受けいれることができるようになる、ということを言っているのです。

利己的な自我に支配される私たちが神の恵みを受けるには、キリストによる救いにあずからなければなりません。キリストの十字架の死は、自分の罪を赦すための贖いの死であり、キリストの復活は、私たちを罪の死の支配から解放し、聖霊によって、永遠の命を与えるためです。この神の恵み、神の力を信じるとき、私たちは、聖霊によって神の子とされます。聖霊によって、神様の力がいつも私たちと共にあり、イエス様の愛がいつも私たちと共にあるようにしていただけるのです。この神の恵みに生かされるときに、「敵をも愛す」ことができるようになるのです。しかし、私たちはすでに完全な者となっているわけではありません。大切なのは、神の恵みを受けて、日々新しく創造されることです(ガラテヤ6・15)。

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