
主イエスは、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことがえきるでしょうか」という律法学者の問いに、「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、 あなたの主を愛しなさい。』と答え、「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えています。(ルカ10・25-28)「永遠の命を受け継ぐ」とは、この世においても神の国に生き、来世においても永遠の命に生きることです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛しなさい」とは、「全身全霊をもって愛せ」ということです。
神を愛すことは、神のみこころにそった「神の業」を行うことにあります。「人々が神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねると、主は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えておられます。(ヨハネ6・28)
神を愛すとは、神が遣わされた独り子イエスを信ずることなのです。そして、神の愛を信ずる者は、救い主イエスを信じ、神に全てを委ねて生きるようになります。そこから、神への感謝、献身、讃美が起きるのです。
「神への愛」の次に、イエスは「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」 と言われました。神を愛する者は、神が愛しておられる隣人を愛すことを求められるのです。神を愛すとき、隣人への愛が生まれます。イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と教えています。(マタイ25・40)
IS(イスラミック・ステェ-ト、イスラム国)の戦闘員は、「アラー(神)は偉大なり」と叫びながら無差別の自爆テロ事件を起こしています。彼らは神のために身を捧げていると思い込み、一般市民を殺傷し、恐怖を与え、イスラム国を広げようとしているのです。自爆者は英雄とされ、天国に迎えられると信じているのです。しかし、この自爆行為は、自分の生命も他人の生命も大事にしない、自暴自棄的な行為としか思えません。アラー(神)のためとしながら、イスラム教の教えにも反するといわれる、間違った信仰なのです。
かつて日本も大東亜共栄圏をつくるという国の政策がありました。それは言ってみれば、日本国土の拡張であり、植民地支配の政策でした。第二次世界大戦の終盤には、敗退が続いた日本軍は特攻隊で敵艦に自爆する戦略をとりました。特攻隊兵は、当時神とされていた天皇陛下のために命を捧げ、軍神として靖国神社に祀られることを名誉としました。このように国の政策や教育によって、国民のほとんどが洗脳され、日本は神の国であると信じ、戦争の勝利を疑わなかったのです。このように、神のため、としながらも、間違った神信仰も起こり得るのです。
遠藤周作の小説『沈黙』が映画として上映され、話題になっています。この映画を観た人たちは、はたしてどのような評価をされているのでしょうか。
この映画の中で、神への信仰を貫くのか、人を憐れみ信仰を捨てるのか、という二者択一の場面がります。主役の祭司ロドリゴは、彼が転ばなければ信徒が半死半生に痛めつけられて虐殺される、というギリギリの境地に立たされたのです。すでに信仰を捨て棄教した、ロドリゴの師だったフェレイラが、「もしキリストがここにいられたら、キリストは転んだでしょう。愛のために、自分のすべてを犠牲にしても」とロドリゴに語りかけます。踏絵の前に立たされたロドリゴ司祭に、銅板踏絵のキリストが、「踏むがよい。お前のその足の痛みを、この私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生れ、十字架を背負ったのだから。」と言うのです。これは、実は、ロドリゴに踏絵を踏ませ、信徒を死から救うことの方を選ばせるために、考えだした作者のことばです。これは、小説なのでゆるされることですが、聖書の教えに反するものです。作者は、あの第一戒めである神を愛すことよりも、第二の戒めである人を愛することの方を選ぶことを優先させたのです。しかし、それが本当に人を愛することになるのかが問題です。なぜなら、この世での生に執着することにより、復活の命に生きる信仰を失わせ、永遠の命を継ぐ希望を捨てることになるからです。
主イエスは、最後まで父なる神に従順でした。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と悪魔を退けられた方です。イエスは、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を継ぐ。」(マタイ19・29)「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10・28)と言っておられます。
遠藤周作氏は、拷問に屈した者と、屈しなかった者の違いを次のように述べています。「拷問に転んだ者には神がその愛にもかかわらず、これほどの責め苦を受けている自分たちを助けようともせず、沈黙を守っていることが耐え切れなかったのだ。……一方、あくまで拷問に屈しなかった者はこの責め苦をやがて自分たちが受ける永遠の至福のための試練と考えた。彼等はその時、イエスもまた同じような肉体の苦痛を生前、味わったことを思い出し、……神もまた自分と共に今、苦しんでいるのだと考えた者はこの責め苦に耐えぬこうとしたのである。」(『遠藤周作文学全集10 評伝1』エッセイ)
拷問の屈した者は、神が沈黙していたためであり、屈しなかった者は、神もまた自分と共に苦しんでおり、永遠の至福を受けるためであった、と言っています。小説にも、映画にも、神の右に座って、わたしたちのために執り成してくださるキリストに対する祈りがありません。神は沈黙している、としています。キリストは聖霊によって弱い者を強め、迫害にも耐えるようにしてくださるのです。神は沈黙していません。キリストはわたしたちの心に住んでくださり、どんな時にも共にいてくださる方です。死も剣もどんなものも、キリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないという確信を与えてくださるのです。たとえ殉教の死を受けるような場合があっても、心の平安は乱されることなく、慰められて、主の良き力に守られることを信じるのが聖書の教えです。神を愛することを第一とする者の死は、信徒に対して強い励ましと勇気を与える信仰の証し人となるのです。作者はこのような復活に生きる信仰を持っていなかったのではないでしょうか。
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