
↑ 「イエスの変容」The Transfiguration
イタリヤの画家 ルドヴィーコ・カラッチ (1544 - 1628) 所蔵 Scottish National Gallery
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに 従って歩む者とされましょう。」
聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和に
あずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
受難節第4主日 2019年3月31日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)
交読詩編 29(神の子らよ、主に帰せよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書9章28-36節(新p.123)
説 教 「イエスの姿が変わる」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 285(高き山の上)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 4月7日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ルカによる福音書20章9~19節
説教題 「十字架の勝利」
讃美歌(21) 300 297 24 交読詩編 54
本日の聖書 ルカによる福音書9章28-36節
9:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
本日の説教
今日の聖書の箇所は、イエス様の姿が変わり、栄光に輝くお姿になられた記事です。「山上の変容」とか「山上の変貌」とも呼ばれてていますが、「変容」、「変貌」は姿や形が変わることを言い表す言葉です。並行記事は、マタイ17:1-8、マルコ9:2-8です。
「この話をしてかた八日ほどたったとき」とは、ペトロがイエスを「神からのメシアです」と信仰を言い表した後、イエスが弟子たちに、自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、自分の命を救い、永遠の命が与えられる話をなされてから八日ほどたったとき、を指します。
福音書記者マルコやマタイは、ペトロの信仰告白をした場所はフィリポ・カイサリアであったと記しています。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北方、イスラエル最北の地です。ヘルモン山の南西19キロに位置するに、ヨルダン川の水源の近くにある地です。現在のゴラン高原の一部です。

主イエスは弟子の中でも中心的な位置にあるペトロ、ヨハネとその兄弟ヤコブの三人を連れて、祈るために山に登られました。
その<山>とは、ヘルモン山(標高2815m)や、伝説ではガリラヤのタボル山(ガリラヤ湖の南西約20㎞、標高575m)とされています。

タボル山の頂上にある変容教会と、教会堂内の変容のキリストの壁画
イエスは<祈るために山に登られ>ました。イエスは、度々<人里離れた所に退いて>(ルカ5・16)祈られたり、<祈るために山に>(ルカ6・12)行かれたり、ひとりで祈ったり(ルカ9・18)されています。主イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、霊の交わりでもあり、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。特に十字架の死の前夜、オリーブ山のゲッセマネの園での祈りは、神のみ心を確認して歩むために、必要な祈りでした。イエスは祈りによって、神のみ心を知り、そのみ心に従いました。今日の聖書の個所でも、苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたものと思われます。
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に光り輝きました。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示されたのです。
見ると、二人の人がイエスと語り合っていました。モーセとエリヤです。旧約時代のはるか過去の二人の人物です。
モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承がある紀元前1200年前にエジプトからイスラエルの民を神の約束の地カナン(現在のパレスチナ)に導いた偉大な指導者です。エリヤは死なずに天に上って行ったとされている紀元前850年頃の偉大な預言者です(列王記下2・11)。 彼ら二人ともシナイ山で神と語った経験をもち、しかも二人とも、当時の人々の間では死んでいないと思われ、メシア時代に再び戻って来ると信じられていました。
イエスの変容と、モーセやエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天的存在、神の子であることを示しています。モーセは旧約聖書の律法を、エリヤは預言書を代表する人物です。この二人がイエスの変容に際に共にいたことは、イエスが律法と預言、すなわち旧約聖書に示された神の約束を成就するために、神から遣わされた救世主(メシア)であることを示しています。
二人は栄光に包まれて現れて、イエスが<エルサレムで遂げようとしておられる最期>について話していました。
ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えたが、その二人がイエスから離れようとしたとき、この不思議な神秘的な光景を見たペトロがイエスに言いました。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。
天に迎えられたような体験をしたペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのです。ペトロの思いついた、三つの仮小屋とは、栄光に輝く主イエスとモーセとエリヤのために小屋を建てて迎え、いつまでもそこにとどまって居てもらいたいという願望からなされた提案でした。ペトロはこの変容の出来後が霊的世界の出来事であることを十分に受け止めきれていなかったのです。しかし、モーセやエリヤとイエスを同列に置いているところから、イエスが神の子であることが分かっていません。
ペトロがこう言っていると、雲が現れて栄光に輝く三人は雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から神の声が聞こえました。
「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられました。
<これはわたしの子>は詩編2・7にあるように、イエスが神の独り子であり、メシアであることを示しています。<選ばれた者>はイザヤ書42・1の受難の主の僕を示しています。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子であり、神様が選び、遣わして下さった救い主であられるのです。イエスの受難予告が、天の声によって確認されました。<これに聞け>は、神の子イエスの言うことに聞き従えと弟子たちは命じられたのです。
<これに聞け>は、申命記18・15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」が言及されているが、しかしイエスは、イスラエルの同胞の中から立てられた預言者ではありません。イエスは神の子であり、「モーセ以上の預言者」なのです。モーセは神の民を奴隷にされていたエジプトの地から導き出した指導者でした。神の子は、罪の奴隷になっている人々をこの世から神の国へと導かれる方です。
弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話しませんでした。イエスの変容は、イエスがこの世の人ではなく、神の子であることを弟子たちに明らかにされた出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、聖霊を与えられて初めて分かることでした。
三人の弟子たちは生きたままでイエスと一緒に天上界に引き上げられたような体験をしました。神自身が輝く雲の中からイエスのことを<わたしの愛する子>と宣言したのを聞いたのです。これはたしかに幻というべきものです。この変容の出来事は、イエスが人間の姿から神の姿へ変化したのです。この出来事の唯一の行為者は神であり、イエスと彼の三人の弟子たちは、神を経験したのです。
このイエスの変容の出来事の意義は、第一に、苦しみを受けるためにエルサレムに上ろうとするイエスの決意を強めるものでした。神はイエスに十字架の道を示し、復活することを保証したのです。
第二に、弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。
この記事が私たちに教えていることは何でしょうか。イエスは神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださった、ということです。
地上に来られたイエスは、どこまでも、私たちに対する愛のゆえに、へりくだった姿でした。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。
人としてのイエスの中にも、神としての威光が輝いているのであり、イエスの変容は十字架の死に至るまで従順であったキリストを、神が高くあげた栄光の姿を一時的に表した出来事でした。イエスは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架の贖いを信じる信仰によって、私たちは罪を赦され、聖霊を与えられ、神の子とされ、永遠の命に生きる恵みと救いが与えられるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されました。イエス様が、わたしたちと共にいつもいてくださるなら、これにまさる幸せはありません。
イタリヤの画家 ルドヴィーコ・カラッチ (1544 - 1628) 所蔵 Scottish National Gallery
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに 従って歩む者とされましょう。」
聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和に
あずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
受難節第4主日 2019年3月31日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)
交読詩編 29(神の子らよ、主に帰せよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書9章28-36節(新p.123)
説 教 「イエスの姿が変わる」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 285(高き山の上)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 4月7日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ルカによる福音書20章9~19節
説教題 「十字架の勝利」
讃美歌(21) 300 297 24 交読詩編 54
本日の聖書 ルカによる福音書9章28-36節
9:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
本日の説教
今日の聖書の箇所は、イエス様の姿が変わり、栄光に輝くお姿になられた記事です。「山上の変容」とか「山上の変貌」とも呼ばれてていますが、「変容」、「変貌」は姿や形が変わることを言い表す言葉です。並行記事は、マタイ17:1-8、マルコ9:2-8です。
「この話をしてかた八日ほどたったとき」とは、ペトロがイエスを「神からのメシアです」と信仰を言い表した後、イエスが弟子たちに、自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、自分の命を救い、永遠の命が与えられる話をなされてから八日ほどたったとき、を指します。
福音書記者マルコやマタイは、ペトロの信仰告白をした場所はフィリポ・カイサリアであったと記しています。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北方、イスラエル最北の地です。ヘルモン山の南西19キロに位置するに、ヨルダン川の水源の近くにある地です。現在のゴラン高原の一部です。

主イエスは弟子の中でも中心的な位置にあるペトロ、ヨハネとその兄弟ヤコブの三人を連れて、祈るために山に登られました。
その<山>とは、ヘルモン山(標高2815m)や、伝説ではガリラヤのタボル山(ガリラヤ湖の南西約20㎞、標高575m)とされています。


タボル山の頂上にある変容教会と、教会堂内の変容のキリストの壁画
イエスは<祈るために山に登られ>ました。イエスは、度々<人里離れた所に退いて>(ルカ5・16)祈られたり、<祈るために山に>(ルカ6・12)行かれたり、ひとりで祈ったり(ルカ9・18)されています。主イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、霊の交わりでもあり、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。特に十字架の死の前夜、オリーブ山のゲッセマネの園での祈りは、神のみ心を確認して歩むために、必要な祈りでした。イエスは祈りによって、神のみ心を知り、そのみ心に従いました。今日の聖書の個所でも、苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたものと思われます。
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に光り輝きました。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示されたのです。
見ると、二人の人がイエスと語り合っていました。モーセとエリヤです。旧約時代のはるか過去の二人の人物です。
モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承がある紀元前1200年前にエジプトからイスラエルの民を神の約束の地カナン(現在のパレスチナ)に導いた偉大な指導者です。エリヤは死なずに天に上って行ったとされている紀元前850年頃の偉大な預言者です(列王記下2・11)。 彼ら二人ともシナイ山で神と語った経験をもち、しかも二人とも、当時の人々の間では死んでいないと思われ、メシア時代に再び戻って来ると信じられていました。
イエスの変容と、モーセやエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天的存在、神の子であることを示しています。モーセは旧約聖書の律法を、エリヤは預言書を代表する人物です。この二人がイエスの変容に際に共にいたことは、イエスが律法と預言、すなわち旧約聖書に示された神の約束を成就するために、神から遣わされた救世主(メシア)であることを示しています。
二人は栄光に包まれて現れて、イエスが<エルサレムで遂げようとしておられる最期>について話していました。
ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えたが、その二人がイエスから離れようとしたとき、この不思議な神秘的な光景を見たペトロがイエスに言いました。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。
天に迎えられたような体験をしたペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのです。ペトロの思いついた、三つの仮小屋とは、栄光に輝く主イエスとモーセとエリヤのために小屋を建てて迎え、いつまでもそこにとどまって居てもらいたいという願望からなされた提案でした。ペトロはこの変容の出来後が霊的世界の出来事であることを十分に受け止めきれていなかったのです。しかし、モーセやエリヤとイエスを同列に置いているところから、イエスが神の子であることが分かっていません。
ペトロがこう言っていると、雲が現れて栄光に輝く三人は雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から神の声が聞こえました。
「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられました。
<これはわたしの子>は詩編2・7にあるように、イエスが神の独り子であり、メシアであることを示しています。<選ばれた者>はイザヤ書42・1の受難の主の僕を示しています。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子であり、神様が選び、遣わして下さった救い主であられるのです。イエスの受難予告が、天の声によって確認されました。<これに聞け>は、神の子イエスの言うことに聞き従えと弟子たちは命じられたのです。
<これに聞け>は、申命記18・15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」が言及されているが、しかしイエスは、イスラエルの同胞の中から立てられた預言者ではありません。イエスは神の子であり、「モーセ以上の預言者」なのです。モーセは神の民を奴隷にされていたエジプトの地から導き出した指導者でした。神の子は、罪の奴隷になっている人々をこの世から神の国へと導かれる方です。
弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話しませんでした。イエスの変容は、イエスがこの世の人ではなく、神の子であることを弟子たちに明らかにされた出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、聖霊を与えられて初めて分かることでした。
三人の弟子たちは生きたままでイエスと一緒に天上界に引き上げられたような体験をしました。神自身が輝く雲の中からイエスのことを<わたしの愛する子>と宣言したのを聞いたのです。これはたしかに幻というべきものです。この変容の出来事は、イエスが人間の姿から神の姿へ変化したのです。この出来事の唯一の行為者は神であり、イエスと彼の三人の弟子たちは、神を経験したのです。
このイエスの変容の出来事の意義は、第一に、苦しみを受けるためにエルサレムに上ろうとするイエスの決意を強めるものでした。神はイエスに十字架の道を示し、復活することを保証したのです。
第二に、弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。
この記事が私たちに教えていることは何でしょうか。イエスは神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださった、ということです。
地上に来られたイエスは、どこまでも、私たちに対する愛のゆえに、へりくだった姿でした。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。
人としてのイエスの中にも、神としての威光が輝いているのであり、イエスの変容は十字架の死に至るまで従順であったキリストを、神が高くあげた栄光の姿を一時的に表した出来事でした。イエスは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架の贖いを信じる信仰によって、私たちは罪を赦され、聖霊を与えられ、神の子とされ、永遠の命に生きる恵みと救いが与えられるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されました。イエス様が、わたしたちと共にいつもいてくださるなら、これにまさる幸せはありません。
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