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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第6主日 2023年2月26日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 辺見宗邦牧師
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 462(はてしも知れぬ)
交読詩編 100(全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) イザヤ書43章1-7節(旧p.1130)
説 教 「わたしの目にあなたは価高く、貴い」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、 申し込み下さい。
次週礼拝 3月5日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 コヘレトの言葉(伝道の書)3章1~11節
説教題 「神はすべてを時宜にかなうように造る」
讃美歌(21) 194 575 27 交読詩編 139
本日の聖書 イザヤ書43章1-7節
43:1ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
3わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。
4わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。
5恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。
6北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
7彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。
本日の説教
イザヤ書40章から55章までは、イスラエルの民のバビロン捕囚時代の無名の預言者によって、ペルシアのキュロス王によるバビロン占領直前に書かれたものと思われ、通常「第二イザヤ」と呼んでいます。第二イザヤの預言活動(546-538年)は、最初のイザヤの活動(739-700)より、およそ150年後になります。
イスラエルの民の捕囚は第1回597、第2回586、第3回583、捕囚期間は597~538年まで続きます。第二イザヤが預言活動を開始したときは、長い人では51年になろうとしていました。イスラエルの民は、「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(詩篇89・46)と故国を失ったことを嘆いていました。そのような人々に、長い間隠れたまま応答をしなかった神が現れ、第二イザヤに語るべき預言を与えました。彼は民に捕囚からの解放の時が来たことを告げ、神が民の罪を赦してくださったことを説き続けました。彼の預言は、40~48章と、49章~55章の二部構成になっています。前者は解放前の預言でキュロス2世が、後者は解放後で主の僕が、それぞれ中心的登場人物となります。
42章18節~43章7節は、捕囚からの解放の預言です。
第一段落(42:18-21)は、イスラエルの愚鈍さを嘆きます。
第二段落(42:22-25)は、愚鈍さとは、捕囚がイスラエルの罪に対する主の罰であることに気付かぬことを明らかにします。
第三段落(43:1―7)は、その愚鈍さにもかかわらず、主の愛のゆえにイスラエルが捕囚から解放されることを告知します。罪はそれだけ切り離して自覚することはむずかしいが、神の愛による罪の赦しを知らされるとき、自覚させられることを、この三つの段落は語っています。
今日の礼拝では、この第三段落から神のみことばを聞きととりたいと思います。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(43:1)
1節の初めの言葉は、原文では「しかし今」で始まっています。前の二段落で述べられた愚鈍と罪にもかかわらず、イスラエルは今や救われるという、その比較が強調されています。そしてその救いは、創造の主によるものであることが語られます(1節ab,7節b)。第二イザヤにおいて創造は常に救済との関係で語られます。もう一つの枠づけとして、<わたしはあなたの名を呼ぶ>と、イスラエルの名が主によって呼ばれ(1節e)、<彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者>と、主の名によってイスラエルが呼ばれる(7節a)、との表現が対応しています。前者は救済の起こりを、後者はその結果を表しています。「あなたはわたしのもの」ということばほど信仰者に安心を与えるみ言葉はありません。これは人がどれほど破れに満ちていたとしても、またどんなところに落ち込んだとしても、神は見放すことはないと保証している言葉です。
「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(43:2)
<水の中を通るときも>、<大河の中を通っても>は、エジプトを脱出時の紅海を渡ることを想像させます。<火の中を歩いても>、<炎は燃えつかない>はアッシリアとバビロニアの侵攻の時の戦火を回想させます(詩篇66:12)。水、大河、火、炎は、みな人をのみつくし、なめつくしてしまう危険を表します。このような危機的な時にも主は共にいましたもうことを強調しています。神の愛からあなたを引き離すことはだれも出来ないのです(ローマ8:35)。
「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。」(43:3)
「イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって、どんな比較も超えた、人の想像も及ばない、世界的な圧倒的神であるということを表します。ですから、彼らは、地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。主はイスラエルの救い主であることが宣言され、最大級の犠牲を払ってでもイスラエルを救い出すと宣言されたのです。その身代金(代償)として「エジプトとエチオピアとセパ」の名をあげています。<セパ>はエチオピアの北部に位置します。エジプトは強大国です。神はバヒロンの手に渡ったご自身の民を買い戻すことを約束しています。その「買い戻し」をするための身代金として、エジプト、クシュ(エチオピア)、セバを、バビロンを倒すペルシャに支払うというのです。事実、B.C.539年ペルシャ(現在のイランの地域)のキュロス2世は、バビロンを滅ぼしました。イスラエルの帰還とエルサレムに神殿建設を許可しました。クロス王の後、B.C.343年、カンビュセス2世がエジプトを併合し、現実となります。
「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(43:4)
主のイスラエルに対する評価と愛情が語られます。イスラエルの救済は主の<愛>に基づきます。イスラエルを愛する主の目には、現実には愚かにして罪ある価低いイスラエルが<価高い>と言います。しかも主はその代価を払うと預言します。あなたの代償として<人を与え>、<国々>をあなたの魂の<代わりとする>とは、3節に上げられたアフリカの諸民族のことと思われます。
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。」(43:5-6)
<東から・・・西から・・・、北に向かって・・・南に向かって」は、主なる神が単なる民族神ではなく、全世界にいる諸民族の神であることを示しています。主が<行かせよ>と言い、<引き止めるな>と命じるならば、いかなる民族といえども、その命令に聴き従わないわけにはゆきません。主はすべての民の 神だからです。<わたしの息子たち・・・娘たち>は、イスラエルがその初期から神を父と呼んでいた以上に、主御自身がその民をわが子と呼んでいました。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である(出エジプト4:22-23)。」その親子関係は、親密なものでした。
5~6節に描かれているのは、離散のなげかわしい現実です。すでに紀元前六世紀イスラエルの民は、当時の全世界東西南北に、遠く地の果てに散り散りに離れ離れになっていたことが分かります。それは<ひき裂かれた>現実でした。
「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」(43:7)
彼らは皆、<わたしの名によって呼ばれる者>とは、主の名をその身に負う者という意味です。後にキリスト者はキリストのみ名をその存在に印づけられることになります。彼らイスラエルの民は皆、主の民と呼ばれる者です。「わたしが・・・創造し、・・・形づくり・・・完成した者」と<わたし>が強調され、その創造の目的が主によって達成されることが声高らかにうたわれています。創造は贖いによって完成されます。捕囚のイスラエルに対する神の選びの言葉であり、世界の諸民族の中での神のイスラエルに対するみわざを語られています。イスラエルはヤーウェご自身の栄光のための存在でした。
イスラエルが神に選ばれたのは、「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」(申命記7:7-8)でした。4節の「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」の言葉は、神の御子・主イエスが人間となって地上に誕生されたことにより、地上のすべての人々にたいする神の愛を表わすみ言葉となりました。主なる神は、わたしたちを救う身代わりとして、人々でもなく、国々でもない、御自分の御子を身代わりとしてくださったのです。ヨハネによる福音書に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と記されています。
わたしたちが身分や職業や貧富の差や学歴で、差別されないように、イエス様はベツレヘムの馬小屋で生まれ、田舎のナザレで大工の父の子として成長しました。主は、「地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で貴い」と語りかけておられるのです。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(Ⅰコリント1:28-29)。
主イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いておられます。どんな人も、一人一人が、貴重な、イエス様に愛されている存在なのです。イエス様は人を差別しません。神に愛されるにふさわしくないような罪人をも、神は罪を赦して愛してくださる方です。決してわたしたちは一人ではありません。イエス様がいつも共にいてくださるのです。どんな者も、力も、この神の愛からわたしたちを引き離すことはできません。教会はイエス様によって集められた主の民です。イエス様の愛、永遠の命を与えられて、神を愛し、人を愛す、豊かな人生を送らせていただきましょう